響焰俳句会

ふたりごころ

響焰創刊60周年俳句大会・祝賀会が開催されました(その3) (報告者:蓮尾 碩才)

響焰創刊60周年俳句大会・祝賀会が開催されました(その3) (報告者:蓮尾 碩才)


シンポジウム「言葉のちから」から抜粋「俳句入門のきっかけ」


60周年大会の時の行われましたシンポジウムのごく一部をご紹介します。司会は米田規子さんです。


米田 皆さまこんにちは米田規子でございます。今日は『響焔』創刊60周年記念俳句大会というおめでたい席で、リハーサルもなく出たとこ勝負のライブ感満載でお送りしたいと思います。私のお隣がナビゲーターの渡辺澄さんです。そのお隣が君塚惠子さん。そのお隣が西博子さん。そして蓮尾碩才さん一番はじの方が塩野薫さんです。
きょうのシンポジウムのタイトル、テーマは「言葉のちから」。まず、力強い俳句愛にあふれ、本日ナビゲーターをして頂く渡辺澄さんから、まずお話しいただきたいと思います。よろしくお願いします。



渡辺 渡辺澄でございます。
テーマ「言葉のちから」と言えば、今私たちがやっているこの俳句こそ、本当に言葉そのもので勝負していく大切な文学でありましょう。そして、私は俳句が日本人の生活の中で何世紀もこうして愛され続けているわけは、どういうことなんだろうと考えました。そしたら一つの結論が出ました。日本人というのは言葉への信頼、すなわち言葉のちからによるものが非常に大きいものであると私は考えたわけであります。 私どもは『響焔』で今、勉強させていただいております。そして、『響焔』に入門したきっかけというのは、一人一人の思いは異なることは当然であり、文学への関心から、あるいは自身を豊かにする趣味として頑張りたいと。それは千差万別でありましょうけれど、そこできょうは最初に皆さまが俳句に引かれていったその当時のことを思い浮かべて、そしてここで『響焔』で学ぶことを決心された自分と俳句との出会いのシーンを思い出していただきたいと思います。


米田 あまり難しく考えずに、難しいことはやさしくというように。俳句にも通じると思うんですけれども。それぞれパネラーの方の俳句入門のきっかけ。あるいは俳句入門したての頃の思い出。そういうご自分の経験したことを分かりやすくおっしゃっていただければと思います。では、君塚惠子さんからお願いします。



君塚 皆さま、こんにちは。君塚惠子です。私が『響焔』に入門させていただいたきっかけは大体10年ぐらい前ですね。わが家の近くの公民館で俳句の勉強を一緒にしませんかという、俳句サークルのお誘いのポスターを見かけたことが直接のきっかけです。私には、20代半ばにある高名な俳人(加藤楸邨)の方のシルクロード紀行という旅に参加させていただいた貴重な経験がありました。そのときに初めて俳句っていうものを意識しました。そして、それから35年を経て、俳句の門をたたきました。そして、私もそれなりに人生経験を踏んできて、そろそろ俳句を始めてもいい頃かなと思いまして、参加させていただきました。そういうことです。


米田 ありがとうございました。では次に西博子さんお願いします。

西 こんにちは。西博子です。私が俳句を始めたのは、50代の半ばだったと思うんですけれど。それまで子育てやら仕事してたりして、それと同時に犬を飼いだしました。犬は13年生きたんですけれど、犬が亡くなったときによく「空の巣症候群」って言われますけれど、ポカンと何か目的をなくしちゃって、時間ができてしまいました。市報を見てましたら、公民館の俳句講座っていうのがありまして、これはちょっと何か勉強できるかなと思いましたが、そこに俳句があったんです。
行きましたらそこに来ていらしたのが『響焔』の副主宰をやってらっしゃいました河村四響先生で、とても丁寧に教えていただいて、それから続けているうちにもったいないから本に載せたほうがいいと。本もたくさんいただきましたので入会させていただくことになって、それが平成20年でした。ここの50周年のときに私伺ってますから、これで2回目になります。そんな感じです。とっても雰囲気が良くて、これなら遊びながら、ちょっと学生気分を味わえるし、いいかなと思いました。そんな感じでやっておりました。


米田 では隣の蓮尾碩才さんお願いできますか。



蓮尾 蓮尾碩才と申します。よろしくお願いします。私もそんなに『響焔』では歴史はないんですけども。 私はずっとサラリーマンです、しかも、全国転勤して歩いているサラリーマン組で、なかなか俳句とじっくり付き合うっていう時間が全くありませんでした。2002年に一応、仕事が一段落をして、さてどうするかなと思ったときに、私どもの会社のOBの人たちで句会を作ってまして。そこには当然、指導講師で来てる先生もいらっしゃいますけれども。そこに入らないかっていうような声が掛かってから始めました。もともと、言葉には興味がありましたので、若い頃から百人一首、和歌、それから、現代の短歌、詩、もちろん俳句、川柳、都々逸。そういう短い言葉を使った文芸と言いますか、ざれごとの世界も含めて、言葉の世界っていうのに興味がありましたので俳句を始めたわけです。始めてみるとやっぱり、先ほど山崎先生がおっしゃっていたように、間口は広いけど奥行きは深くて、どこまで行けば到達するのか全然分からない。途中で何をやってるのか分からないような時期がずっと続いておりましたんですけれども。2011年に『響焔』に入会させていただいて、そこから俳句っていうのは、なるほど、こういう道筋があるんだなということに気が付きました。これからも皆さんと一緒に俳句作っていきたいと考えております。以上でございます。


米田  では次、塩野さんよろしくお願いします。


塩野 塩野薫でございます。あらためましてよろしくお願いいたします。趣味としてずっと若いときからスポーツ一本できた人間で、本も読んでないし、文芸にはほど遠い人間なんです。ちょうど50代半ば頃から、ちょっと膝が不調になってきまして、膝関節症ですね。ジョギングなんかもちょっともう。歩くのが精いっぱい。今現在もそうなんですけれどもね。定年後は、一応、山歩きをやろうと決めてたんですが、それもちょっと断念というか、できない体になってしまいました。室内でやれる趣味っていうことで、いろいろ市民講座含めて挑戦したんですが、最後に残ったのが、この俳句だったんです。
俳句を始めて1年ぐらいだったと思いますが、山崎主宰が選者をされております、ある雑誌に投稿したのが最初の出会いといいますか、きっかけでした。その後、入会のお誘いをいただき、特に深く考えてないので、これも何かの縁かなと思って、すんなり入門して、きょうに至っております。ちょうど入会して6年目です。よろしくお願いいたします。


米田 ありがとうございます。いろいろいらっしゃるんですね。文学系の方、体育会系の方。いろいろな花束でございますね。では、最後。今の話題の最後ですけれども、澄さんの入門の頃を教えていただけますか。


渡辺 私考えてみますと、私が社宅に住んでおりましたときに、本屋さんが隣町にありました。私は西宮市甲子園一番町に住んでおりました。うちはなぜか本を尼崎の本屋さんからとっていたんです。毎月来ます『文藝春秋』とか、『アサヒグラフ』とか4、5冊を毎月毎月、運んでくれていたご主人がいらしたんです。そして、私が「本が随分好きなんですね」みたいなことを言われて。そしたら、ある日、「俳句やらへん?」とかって、こう、関西の言葉で。私も「俳句やらへん?」とかって誘われたんですね。「俳句ですか。私、今、公民館では現代詩の研究っていう所に通ってるんですけど」って言ったら、「そんなんやめちゃって、やめちゃって。俳句」。そしたら、その翌日が句会なんですよね。その頃はでも、やっぱり3句か5句ぐらいだったような気がしたんですけど。「とにかく、来てごらん。絶対楽しいから」ということで、招かれて。招かれてっていうのもおかしいんですけれど、それでご縁があったんでしょうね。そこへ足を運ぶようになりました。3句か5句、一生懸命、夜作って持っていきましたね。
そして、そこへ知らず知らずのうちに自分が入っていったっていうことが分かったのは、数カ月前に本が送られてきて、そこに入会者っていうところに私の名前が入っていたんですね。ですから、かなり強引だったんですけど、なんか変わった人もいるもんだ。愉快なおじさんだなと思って。私は関西に6年おりましたから、結局、6年続いたんですね。その本屋さんと。そして、その人がある結社の編集に携わっていたので。ですから、もう仕方がない、いろいろ気持ちを考えまして、気持ちを落ち着けて、そこに入ることにいたしました。入門のときは、そのようでした。
それから、あと、信州などたくさん引っ越しを繰り返していたんですけれど、俳句だけは手放さずに東京まで戻ってきました。それで、現在に至ります。


*この他にも「言葉のちから」に関する意見交換が約1時間ほど行われましたが、冒頭の部
分だけ抜粋掲載しました。(抜粋記事 蓮尾碩才)

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