令和3年度の新作家・新同人候補の発表!!
新型コロナの感染が心配される中、11月2日(月)響焰の東京句会が開催され、席上新作家候補(5人)と新同人(3人)の発表が米田規子主宰からありました。発表の後加藤千恵子同人会長よりお祝いの言葉と、候補者8名の決意表明がありました。
例年この行事は10月に行われる白秋会の中で賑やかに発表されるものですが、コロナ禍の現在小規模な形での発表になったことは悔しい限りです。皆さんのますますの発展と、来季が賑やかに句会が開催されることを祈ります。
参加者37名、投句数74句、9月1日投句、9月7日選句。
山崎先生から今月の選句を頂くにあたり「事実を事実として云ってもつまらない。〝虚実は皮膜の間〟が大切」と短いコメントがありました。
〝虚実は皮膜の間〟とは何か?
よく理解できないため調べたところ、近松門左衛門の芸術論であることがわかりました。近松は「事実と虚構の微妙な境界に芸術の真実がある。皮膜とは皮膚や粘膜つまり極めてうすいところ、従って虚と実が区別できないところに本当の芸がある」と説いています。
俳句も同じで、事実を事実としてだけ詠むのではなく、事実と虚実の微妙な間を詠む芸術なのでしょう。(出典:三省堂 新明解四字熟語辞典)
参加者37名、投句数74句、8月1日投句、8月7日選句。
ネット句会も3回目となり参加者は、光焰集作家3名、朱焰集作家5名、青焰集作家4名、白焰集作家11名、白灯集作家14名となりました。この多彩な参加者を見ると、ネット句会はまさに『毎月の俳句コンクール』です。
皆さん練りに練った2句を投句し、厳しい目で選句する楽しくも緊張した句会になりました。
令和元年の白秋会は10月16日・17日に、越後湯沢温泉で行われました。前日からの参加者を含め32人の会でした。
冒頭山崎主宰からの新同人候補の発表と祝辞に続き、句会が開催されました。皆さんそれぞれの思いを込めて投句され、主宰の特選句は下記3句でした。
稔り田のひかりのなかを父と母 節子
秋日澄む水湧くところ水の神 博子
東京をはなれところどころに秋 智子
料理と酒とカラオケそして温泉を楽しみ、翌日は午前9時から第2回目の句会です。初日とは趣の違う句や前夜の袋廻しの成果を含んだ秀句が多く出ましたが、主宰の特選3句は下記の通りでした。
鰯雲時間まっすぐ越後路へ 智子
川上に川下にまた霧ふかし 久
トンネルと夜行寝台里の秋 レイ子
12時に全ての行事が終り、真直ぐ帰る人、吟行を続ける人、お土産を探しに行く人に別れて解散しました。
今年の白秋会は10月24日~25日の日程で、安房鴨川・ホテル三日月において開催されました。当日主宰は急用で参加されませんでしたが、日帰りの方も含め31名で賑やかな会となりました。
和田同人会長の開会の挨拶に続き、新年度の新作家、新同人の発表が次の通りありました。
新光焰集作家に加藤千恵子さん
新青焰集作家に山口美恵子さん、山口典子さん、大見充子さん、あざみ精さん
新同人に大森麗子さん、中野充子さん、森田成子さん
それぞれの挨拶があり、第一日目の句会に入りました。
特別選者の特選句は次の通りです。
和田浩一特選句
船留めに錆ゆったりと秋の鳶 小川 トシ子
栗原節子特選句
潮騒のまん中にあり十三夜 小林 マリ子
森村文子特選句
トンネルと海とトンネル冬鷗 中村 克子
渡辺澄特選句
六つまで秋の七草安房の径 蓮尾 碩才
川嶋悦特選句子
長月の風に鳴るもの靡くもの 栗原 節子
句会終了後は温泉に浸り、海の幸満載の料理とカラオケで楽しい懇親会となり、海に浮かぶ満月を愛でて一夜が明けました。
二日目は朝九時から句会となり、特別選者の特選句は以下の通りです。
和田浩一特選句
みな睡り窓いっぱいに月の海 川嶋 悦子
栗原節子特選句
これ以上開かぬ窓なり寒月光 渡辺 澄
森村文子特選句
これ以上開かぬ窓なり寒月光 渡辺 澄
渡辺澄特選句
鰯裂く掌にある太平洋 蓮尾 碩才
川嶋悦特選句子
海そこにカットグラスに満たす秋 大見 充子
講評と染筆の授与等が順調に行われ、予定通り12時に今年の白秋会は無事終了しそれぞれの家路に向かいました。
祝辞 本阿弥書店 俳壇編集長 安田まどか氏

初めてお目にかかる方も多いと思いますが、私は2016年からこの仕事についています。
本日はおめでとうございます。
60年と言えば還暦になりますが、皆様の経験を生かしてさらに発展することを願っております。
響焰のモットー、「薔薇の花束ではない」を実践する結社として、良い触れ合いが生まれるのではと思っています。響焰の俳誌にはこちらの想像力を書き立てる句が沢山あります。益々の発展を祈ります。
祝辞 文学の森 俳句界編集長 林誠司氏

響焰は名前が特徴ではといつも思っていました。造語のような気がして、特に焰の字に特徴があり、このような名前がついている結社は響焰だけではないでしょうか。
山崎主宰には以前、和知喜八のことにつきインタビューさせていただきましたが、喜八俳句は単なる愛ではなく、人間性を追求した愛があると感じました。
社会性俳句は「花鳥諷詠」に対抗したものでなく、より人間を詠む、人間の心を読む俳句ではないかと感じた次第です。
今後とも益々の発展をお祈りします。
祝辞 紅書房代表 菊池洋子氏

おめでとうございます。60年の年月の重さは大変なものだと思います。
和知喜八から山崎聰への流れを繋げてくることは大変な労力を必要としたと思います。
思い起こしますと、平成2年に和知喜八先生から電話をいただき、自分の句集を作りたいとお話しをいただき、ご自宅に伺ったのですが、その時和知先生は77歳、でもとても若く感じたことを思い出します。
その7年後に句集をまた私どもに頂きましたが、その時山崎主宰が和知喜八先生を支える姿が印象的でした。素晴らしい師弟関係だなと印象を受けました。
その後山崎主宰には「喜八俳句覚書」「しまふくろうによろしく」などの本を出させていただきましたり、お弟子さんの句集も出版しましたが、みなさん原稿も綺麗で、山崎主宰の目が行き届いた感じがしました。
主宰の思いが同人の中にも浸透している印象で、響焰は素晴らしいと思います。
今後とも活躍を祈ります。
祝辞 俳句四季編集長 上野佐緒氏

本日はお招きをいただき有難うございました。前回もお招きをいただき、月日の経つのは早いとの印象を受けました。
山崎主宰には俳句四季の選者に、また投句欄には沢山の同人・会員の方々の投句をいただき感謝しております。
響焰は「薔薇の花束ではない」の言葉通り、いろいろな考え方があり、それが進歩の要因と感じました。
是非70周年を迎えられますよう期待します。
祝辞 文芸ジャーナリスト 酒井佐忠氏

毎日新聞におりました酒井です。
久し振りに山崎先生にお目にかかれ、ご壮健で安心いたしました。
先生から俳句は「物狂い」と今お聞きし、大変奥深い言葉と感じておりこれはむしろ褒め言葉ではないか思います。
昨年は山崎先生が幹事長や副会長をされていた現代俳句協会の70周年や、金子兜太さんなどがお亡くなりになり、いくつかの俳誌が廃刊になる中、和知喜八さんの流れを引き継ぎ、現俳の中でも豊かな人間性と人を大切にするユニークな結社が60年を迎えたことは大変喜ばしいと思います。
和知先生の言葉で印象に残るのは、「響焰はバラの花束ではなく、名もない花の集団である」で、この精神を山崎先生が引継ぎ今も息づいています。
まさに響焰誌は同人誌の良さと結社誌の良さを同時に兼ね備えたものであり、誰でも平等に受け入れるが、選句は厳しくする精神が貫かれています。
先ほど響焰誌4月号を拝見しましたが詩心、遊び心があふれた良い句が多かったように思います。
自由な俳句と人を平等に受け入れる響焰の流れを、今後とも成長させることを願い祝辞とします。
乾杯の挨拶 角川文化振興財団専務理事 宍戸健司氏

おめでとうございます、角川の宍戸です。
私は俳句の世界に入って時間は短いのですが、編集の仕事には20年以上携わっている者です。
私が最近胸に響いた言葉は響焰誌の巻末に掲載されていた山崎主宰の言葉で、「恋愛・結婚と俳句はよく似ている」と言う言葉でした。
それと「見えてるものを見ないで見えていないものを見る」と言う言葉で、これが俳句の本質なのだと感じました。
俳壇も金子兜太先生のご逝去や有名俳誌の廃刊等、大きな変わり目になっていますが、加藤楸邨、和知喜八の流れを汲む響焰が益々発展することを祈念します。
祝辞 東京四季出版社長 西井洋子氏

以前の会でお目にかかった方もたくさんおられると思いますが、本日は60周年おめでとうございます。
金子兜太さんがお亡くなりになりましたが、原子公平など大正8年生まれの一時代を築いた俳人がこれでいなくなりました。
山崎主宰の言葉で印象に残っていることは、「俳句とは自らの思いを思いっきり言葉にしてたたきつけること、自らの命を確かめる作業である」と言う言葉です。
和知喜八の精神を生かし響焰は60周年を迎えましたが、次の周年行事にはまた皆様とお会いしたいと思います。是非嵐を呼んで花を咲かせてください。
60周年大会の時の行われましたシンポジウムのごく一部をご紹介します。司会は米田規子さんです。
米田 皆さまこんにちは米田規子でございます。今日は『響焔』創刊60周年記念俳句大会というおめでたい席で、リハーサルもなく出たとこ勝負のライブ感満載でお送りしたいと思います。私のお隣がナビゲーターの渡辺澄さんです。そのお隣が君塚惠子さん。そのお隣が西博子さん。そして蓮尾碩才さん一番はじの方が塩野薫さんです。
きょうのシンポジウムのタイトル、テーマは「言葉のちから」。まず、力強い俳句愛にあふれ、本日ナビゲーターをして頂く渡辺澄さんから、まずお話しいただきたいと思います。よろしくお願いします。

渡辺 渡辺澄でございます。
テーマ「言葉のちから」と言えば、今私たちがやっているこの俳句こそ、本当に言葉そのもので勝負していく大切な文学でありましょう。そして、私は俳句が日本人の生活の中で何世紀もこうして愛され続けているわけは、どういうことなんだろうと考えました。そしたら一つの結論が出ました。日本人というのは言葉への信頼、すなわち言葉のちからによるものが非常に大きいものであると私は考えたわけであります。 私どもは『響焔』で今、勉強させていただいております。そして、『響焔』に入門したきっかけというのは、一人一人の思いは異なることは当然であり、文学への関心から、あるいは自身を豊かにする趣味として頑張りたいと。それは千差万別でありましょうけれど、そこできょうは最初に皆さまが俳句に引かれていったその当時のことを思い浮かべて、そしてここで『響焔』で学ぶことを決心された自分と俳句との出会いのシーンを思い出していただきたいと思います。
米田 あまり難しく考えずに、難しいことはやさしくというように。俳句にも通じると思うんですけれども。それぞれパネラーの方の俳句入門のきっかけ。あるいは俳句入門したての頃の思い出。そういうご自分の経験したことを分かりやすくおっしゃっていただければと思います。では、君塚惠子さんからお願いします。

君塚 皆さま、こんにちは。君塚惠子です。私が『響焔』に入門させていただいたきっかけは大体10年ぐらい前ですね。わが家の近くの公民館で俳句の勉強を一緒にしませんかという、俳句サークルのお誘いのポスターを見かけたことが直接のきっかけです。私には、20代半ばにある高名な俳人(加藤楸邨)の方のシルクロード紀行という旅に参加させていただいた貴重な経験がありました。そのときに初めて俳句っていうものを意識しました。そして、それから35年を経て、俳句の門をたたきました。そして、私もそれなりに人生経験を踏んできて、そろそろ俳句を始めてもいい頃かなと思いまして、参加させていただきました。そういうことです。
米田 ありがとうございました。では次に西博子さんお願いします。
西 こんにちは。西博子です。私が俳句を始めたのは、50代の半ばだったと思うんですけれど。それまで子育てやら仕事してたりして、それと同時に犬を飼いだしました。犬は13年生きたんですけれど、犬が亡くなったときによく「空の巣症候群」って言われますけれど、ポカンと何か目的をなくしちゃって、時間ができてしまいました。市報を見てましたら、公民館の俳句講座っていうのがありまして、これはちょっと何か勉強できるかなと思いましたが、そこに俳句があったんです。
行きましたらそこに来ていらしたのが『響焔』の副主宰をやってらっしゃいました河村四響先生で、とても丁寧に教えていただいて、それから続けているうちにもったいないから本に載せたほうがいいと。本もたくさんいただきましたので入会させていただくことになって、それが平成20年でした。ここの50周年のときに私伺ってますから、これで2回目になります。そんな感じです。とっても雰囲気が良くて、これなら遊びながら、ちょっと学生気分を味わえるし、いいかなと思いました。そんな感じでやっておりました。
米田 では隣の蓮尾碩才さんお願いできますか。

蓮尾 蓮尾碩才と申します。よろしくお願いします。私もそんなに『響焔』では歴史はないんですけども。 私はずっとサラリーマンです、しかも、全国転勤して歩いているサラリーマン組で、なかなか俳句とじっくり付き合うっていう時間が全くありませんでした。2002年に一応、仕事が一段落をして、さてどうするかなと思ったときに、私どもの会社のOBの人たちで句会を作ってまして。そこには当然、指導講師で来てる先生もいらっしゃいますけれども。そこに入らないかっていうような声が掛かってから始めました。もともと、言葉には興味がありましたので、若い頃から百人一首、和歌、それから、現代の短歌、詩、もちろん俳句、川柳、都々逸。そういう短い言葉を使った文芸と言いますか、ざれごとの世界も含めて、言葉の世界っていうのに興味がありましたので俳句を始めたわけです。始めてみるとやっぱり、先ほど山崎先生がおっしゃっていたように、間口は広いけど奥行きは深くて、どこまで行けば到達するのか全然分からない。途中で何をやってるのか分からないような時期がずっと続いておりましたんですけれども。2011年に『響焔』に入会させていただいて、そこから俳句っていうのは、なるほど、こういう道筋があるんだなということに気が付きました。これからも皆さんと一緒に俳句作っていきたいと考えております。以上でございます。
米田 では次、塩野さんよろしくお願いします。
塩野 塩野薫でございます。あらためましてよろしくお願いいたします。趣味としてずっと若いときからスポーツ一本できた人間で、本も読んでないし、文芸にはほど遠い人間なんです。ちょうど50代半ば頃から、ちょっと膝が不調になってきまして、膝関節症ですね。ジョギングなんかもちょっともう。歩くのが精いっぱい。今現在もそうなんですけれどもね。定年後は、一応、山歩きをやろうと決めてたんですが、それもちょっと断念というか、できない体になってしまいました。室内でやれる趣味っていうことで、いろいろ市民講座含めて挑戦したんですが、最後に残ったのが、この俳句だったんです。
俳句を始めて1年ぐらいだったと思いますが、山崎主宰が選者をされております、ある雑誌に投稿したのが最初の出会いといいますか、きっかけでした。その後、入会のお誘いをいただき、特に深く考えてないので、これも何かの縁かなと思って、すんなり入門して、きょうに至っております。ちょうど入会して6年目です。よろしくお願いいたします。
米田 ありがとうございます。いろいろいらっしゃるんですね。文学系の方、体育会系の方。いろいろな花束でございますね。では、最後。今の話題の最後ですけれども、澄さんの入門の頃を教えていただけますか。
渡辺 私考えてみますと、私が社宅に住んでおりましたときに、本屋さんが隣町にありました。私は西宮市甲子園一番町に住んでおりました。うちはなぜか本を尼崎の本屋さんからとっていたんです。毎月来ます『文藝春秋』とか、『アサヒグラフ』とか4、5冊を毎月毎月、運んでくれていたご主人がいらしたんです。そして、私が「本が随分好きなんですね」みたいなことを言われて。そしたら、ある日、「俳句やらへん?」とかって、こう、関西の言葉で。私も「俳句やらへん?」とかって誘われたんですね。「俳句ですか。私、今、公民館では現代詩の研究っていう所に通ってるんですけど」って言ったら、「そんなんやめちゃって、やめちゃって。俳句」。そしたら、その翌日が句会なんですよね。その頃はでも、やっぱり3句か5句ぐらいだったような気がしたんですけど。「とにかく、来てごらん。絶対楽しいから」ということで、招かれて。招かれてっていうのもおかしいんですけれど、それでご縁があったんでしょうね。そこへ足を運ぶようになりました。3句か5句、一生懸命、夜作って持っていきましたね。
そして、そこへ知らず知らずのうちに自分が入っていったっていうことが分かったのは、数カ月前に本が送られてきて、そこに入会者っていうところに私の名前が入っていたんですね。ですから、かなり強引だったんですけど、なんか変わった人もいるもんだ。愉快なおじさんだなと思って。私は関西に6年おりましたから、結局、6年続いたんですね。その本屋さんと。そして、その人がある結社の編集に携わっていたので。ですから、もう仕方がない、いろいろ気持ちを考えまして、気持ちを落ち着けて、そこに入ることにいたしました。入門のときは、そのようでした。
それから、あと、信州などたくさん引っ越しを繰り返していたんですけれど、俳句だけは手放さずに東京まで戻ってきました。それで、現在に至ります。
*この他にも「言葉のちから」に関する意見交換が約1時間ほど行われましたが、冒頭の部
分だけ抜粋掲載しました。(抜粋記事 蓮尾碩才)