響焰俳句会

ふたりごころ

響焰誌より

響焰2017年4月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201704

かにかくに            山崎 聰

雪野原念々彼もまた彼も
吉野いまほのぐらき空西行忌
雪国を出てからおもう雪の山
雪景色あとやや蒼き夜の景
かにかくに生者はさびし雪野原
雪やんでおわりのはじまりのおわり
一月のときにさびしき放れ駒
凍雲のひたすらなるを見て旅へ
神々の水車の里の蕪汁
圧倒的多数真冬の星空は

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2017年1月号より

秋雲の一片として鹿沼に居り       石倉 夏生
うつむいていれば秋風らしきもの     森村 文子
北山しぐれされど鳥獣戯画絵巻      廣谷 幸子
就中花柊の咲きはじめ          小川 英二
きょう一人通っただけの曼珠沙華     秋山ひろ子
ぶどう狩退屈そうなくすり指       内田  厚
行く秋のしんじつ光るなで仏       高橋登仕子
房総も武蔵もなくて猫じゃらし      石井 昭子
秋雨前線どんどんくるぞ年とるぞ     小林マリ子
白線の乱れて終わる運動会        笹尾 京子

<白灯対談より>

やわらかに生きて平成七草粥       森田 茂子
地上への階段のぼり春の雪        飯田 洋子
晩年のすこし膨らみ寒椿         土田美穂子
割烹着の昭和遠のき冬牡丹        志鎌  史
どこまでもこんなに碧い初御空      佐藤由里枝
よく遊びすこし学びて雪だるま      塩野  薫
寒林に朝日金平糖ひとつ         酒井眞知子
赤ん坊の大きなあくび冬木に芽      相田 勝子
元日やピョコンと頭男の子        笹本 陽子
億年の中の一日冬日和          中野 充子
来し方をたどりてゆけば雪の街      江口 ユキ
もふもふの狸よ水を飲みに来い      波多野真代
雪が降る三日降るまだ降りそうな     大竹 妙子
冬の雷いよいよ彼がやってくる      下津 加菜
ジーパンに穴ごうごうと年つまる     川口 史江
雪催い黙って逝ってしまいけり      五十嵐美紗子

【山崎主宰の編集後記】

 ”文学とは、言葉で表せないことを、それでも言葉で書いたもの”と云う。それに倣って云えば、俳句も、本来言葉では表せないことを、あえて十七音の言葉で書いたもの、ということになろうか。 わかり易く云えば、説明できるような俳句は本物ではない、ということである。言葉で説明できないから俳句にするのである。

 句会などで滔々と自句を解説する人は初心者だと云うのはそのへんのことを云っているのである。   (Y)

響焰2017年3月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201703

もとより            山崎 聰

落葉焚縄文すでにして滅ぶ
楓の実の青いとげとげ地震のあと
冬桜少年少女泣いている
青蜜柑もとより後期高齢者
膝さむしみちのくさびし通り雨
思えばはるかふくろうのこえすがた
錆び釘のよう極月の銀座裏
去年今年なんでもあって何もなく
風花す靖国の前通るとき
すこしだけ賢者の側に今朝の春

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年12月号より

香水のふはりと過ぎてあとは闇      石倉 夏生
水中花二階へ居れば雨ばかり       渡辺  澄
月渡るひとり一人の小さな町       沖 みゆき
草いきれこれも地球の匂いかな      紀の﨑 茜
どうしても戦前戦後サングラス      小川 英二
鶏頭もえて一人にも雨は降る       河津 智子
月恋し小学校のうさぎ小屋        秋山ひろ子
みずいろを加え朝顔日記かな       山口 典子
なにがなし終戦の日の可燃ゴミ      石井 昭子
火のごとく弔歌のごとく虫しぐれ     大見 充子

<白灯対談より>

神の留守ボージョレ地方から便り     志鎌  史
居酒屋の柱に凭れ年の暮         塩野  薫
昼の闇余韻のようにポインセチア     土田美穂子
大空の雲を散らして蒼鷹         酒井眞知子
十二月八日ラジオから江戸落語      佐藤由里枝
円いもの丸く隠して雪が降る       相田 勝子
美術館の長い階段十二月         飯田 洋子
青天の銀杏さざんか無人駅        中野 充子
日記買うくどくどこつこつ書くつもり   笹本 陽子
まっしろでまっくろな夢十二月      大竹 妙子
冬の月朽ち木ほろほろ崩れたり      波多野真代
羊羹の切り口親し漱石忌         小林多恵子
そのあとはあだやかに過ぎ枯尾花     江口 ユキ
幸せは一プラス一シクラメン       川口 史江
ふるさとの零れるような冬の星      下津 加菜
豪快な番屋の暖簾雪迎え         辻  哲子

【山崎主宰の編集後記】

 ”俳句は感覚の世界にあるのではなく、その奥の情緒の世界にある”と云ったのは、数学者の岡潔である。岡潔は数学と俳句の近似を云い、芭蕉の理解が数学の研究に大いに役立ったと述べている。また続けて”感覚は刹那の刺激に過ぎないからその記憶はすぐに薄れるが、情緒の印象は時が経っても変わらない”と云い、最後に”情緒とは自他通い合う心である”と云っている。まさに私達が目指しす”ふたりごごろ”ということにほかならない。    (Y)

響焰2017年2月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201702

留 守            山崎 聰

命終のひとつ風の中の榠樝
筋肉をほぐす運動神の留守
木の葉舞って種火のごときもの二三
村の子と立冬のうすあおい田圃
戦争の木という木あり十二月
穢土泥土まっさかさまに冬銀河
暗きより出でて暗きへ冬の鳶
十二月八日が近し漂えり
どこをどう曲れば十二月の火花
年迫る思い両国橋のたもと

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年11月号より

赤ん坊夏に生まれて裸なり        森村 文子
蟻の列賢者が覗くまでもなく       渡辺  澄
けんめいに同じ時間を泳ぐなり      米田 規子
かにかくに五月曼荼羅終るかな      鈴 カノン
夏夕べ四谷見附の橋わたる        河村 芳子
哲学のふとうしろから土用波       篠田 香子
百声に一声まぎれ涼しかり        君塚 惠子
夏の果金銀砂子しだらでん        鈴木 瑩子
蛇苺終りはいつも母マリア        楡井 正隆
八千歩あるいてからの夏木立       小林マリ子

<白灯対談より>

菊人形展暮れてゆく隅田川        飯田 洋子
文化の日みな佳き人と思いけり      志鎌  史
江戸の粋平成の粋冬の川         酒井眞知子
冬の晴叱られながら泣きながら      塩野  薫
冬の虹あるいは泣いているのかも     佐藤由里枝
黄落の微光透明になる私         土田美穂子
あおあおと人間臭き月夜茸        森田 成子
勤労感謝の日棒一本が頼り        相田 勝子
日記買う見えぬ未来に期待して      廣川やよい
赤いものほつりほつりと冬支度      川口 史江
聴こえくる防人の歌捨案山子       小林多恵子
逝く秋の椅子深ければ深ねむり      笹本 陽子
あの頃もあの白菊のまっ盛り       大竹 妙子
あいまいなままに別れて冬の月      下津 加菜
鎮魂の植樹みちのくは小春日       辻  哲子
円虹の二重に見えし明るさよ       岩政 輝男

 

【山崎主宰の編集後記】

 ”当初の構想を消し去ったとき、はじめて絵が完成する”と云ったのは、フランスのキュビズムの画家ジョルジュ・ブラックである。
 俳句について云えば、当初の構想を消すとは、つまり最初に見たもの、思ったことから離れる、ということであろう。見たものを如何にうまく云うかが俳句だと思っているとすればそれは違う。はじめに見たもの、思ったことは単なる詩のきっかけ、それを丸ごと呑み込んだ上で、あと如何にそこから離れるか、そこからが本当の俳句の作業である。心したい。    (Y)

響焰2017年1月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201701

この世の不思議            山崎 聰

ほのあかきいのちも見えて檀の実
白露や仏陀はねむり虚子は立つ
挽歌ともこのごろ荻のこぼれ花
神渡し晩年がつと近づきぬ
破れ蓮この世の不思議夜の不思議
晩秋というかけがえのないあした
泣いていたり笑っていたり落葉焚
月がもっとも大きく見えし夜のふくろう
枯葉舞う狙われているのは君だ
雪が降る豹の檻にはたっぷり降る

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年10月号より

お坊さん蝉鳴く峠越えて来る       栗原 節子
天の川ちゃらんぽらんほろり哀し     森村 文子
片陰をいくつ拾えば大東京        米田 規子
裔として曖昧模糊と十三夜        鈴 カノン
夕焼やわたしのうしろすべて過去     紀の﨑 茜
尺蠖の登りきれない青い空        小川トシ子
とりけものさかなの眼青山河       西  博子
蹌踉と豊洲有明夏の月          君塚 惠子
白南風の真昼街角三四郎         楡井 正隆
おもむろに空母のように八月来      佐藤由里枝

<白灯対談より>

全山黄落くっきりとダリの髭       酒井眞知子
鰯雲どんなあしたを待ちますか      飯田 洋子
まんなかで仔山羊が鳴いて秋祭      志鎌  史
サルビアの赤に酔いたり自由なり     土田美穂子
敬老の日の末席ですこし鬱        佐藤由里枝
いちにちの音のはじまり稲穂波      塩野  薫
起立礼そして気を付けねこじゃらし    相田 勝子
遠汽笛秋風わたる千曲川         中野 充子
コスモスの海不死鳥はかくされて     大竹 妙子
オニヤンマ大和撫子はおりませぬ     波多野真代
迷ったら迷ったままで星月夜       笹本 陽子
ふるさとの確かな笑顔黒葡萄       江口 ユキ
柿紅葉眼下に塩の道走る         川口 史江
突然に真っ赤ななポルシェ霧の中     下津 加菜
窓際の書棚に『檸檬』秋の暮       小林多恵子
雲流れさらに加速の神無月        辻  哲子

 

【山崎主宰の編集後記】

 俳句のような文芸は、つまるところ、たった一人の敵に対して鋭く放つ矢のようなものではないか。具体的に云えば、目標と定めた具眼の士に向かって、これでどうだと自作を示す、そういうものであろう。
 だから句会などで徒に高得点を競うなどは下の下、この人と狙った誰かがどう評価してくれたか、そのことに意義を見出す。俳句とはそういうものだと思う。    (Y)

響焰2016年12月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→shusai_haiku_201612

神の座(くら)            山崎 聰

原郷の濃くなってゆくとんぼ釣り
誰と誰とうしろすがたの似て満月
つちくれはつちくれとして昼の月
流星の墜ちゆくさまを修羅という
壺阪を下ってゆけば秋の雨
雁のこえ野のこえおのれ叱る声
さびしからんに月山はきょうも霧
鎌倉市小町二丁目蟹雑炊
ふくろうの視野に荒ぶる神の座
いっせいにだれにともなく藁ぼっち

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年9月号より

狼のごとく蛍を見ておりぬ        森村 文子
途中とも知らず尺蠖が急ぐ        小林  実
水無月のたてがみ切って退院す      鈴 カノン
白靴が歩いていたら歩いている      紀の﨑 茜
鉄砲百合の射程距離内の猫        伊達 甲女
円周を歩く夏帽子のわれら        北島 洋子
而して鎌倉で会う白日傘         河村 芳子
羽抜鶏行進曲がうしろから        君塚 惠子
梅雨の走り膝っ小僧も駅ビルも      愛甲 知子
風鈴の鳴りこぼしたる昼の空       大見 充子

<白灯対談より>

稲扱きの匂いてよぎる戦後かな      塩野  薫
藍の花おのれの色をまだ知らず      笹尾 京子
おしなべて無口東京も八月も       松村 五月
より遠く強く黙々草の花         蓮尾 碩才
少年のように笑って夏が行く       佐藤由里枝
世界地図のところどころのそぞろ寒    多田せり奈
スペイン舞曲烏瓜いま真っ赤       土田美穂子
木の実落つまだ見ぬ山を見るために    相田 勝子
恙なく黄泉平坂菊の酒          志鎌  史
夏置いて少年の船遠ざかる        酒井眞知子
たっぷりと銀座にひと日秋茜       中野 充子
赤トンボの歌を唄いて赤トンボ      笹本 陽子
秋時雨歩いてゆけば神田川        飯田 洋子
ずぶ濡れの思い出ばかり風の盆      川口 史江
目玉焼きの目玉溶けだす秋黴雨      大竹 妙子
塾の子と並んで花火見ておりぬ      小林多恵子

 

【山崎主宰の編集後記】

 白灯集作品が集まる23、24日頃から、翌月の10日頃までが、響焰の仕事のピークである。だからその間にほかの仕事、大会作品の選とか総合誌の原稿とかが入ると、時間のやりくりに窮することになる。
 そういうときには、仕事を横に並べて頭を抱えるのではなく、締切の早いなどプライオリティの高い順に各個撃破する作戦を立てる。この方法でこれまで多忙を理由に原稿依頼を断ったことは一度もない。    (Y)

響焰2016年11月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→shusai_haiku_201611

こつんころん            山崎 聰

原罪か原風景か旱星
大花野こつんころんと風小僧
釈尊の御眼にちからこぼれ萩
敬老の日の母ヨハネ書は知らず
月の雨国のおわりを見るような
それからのおとこのくらし赤とんぼ
テロのこと加齢のこともいぼむしり
もはや遠く月山は秋の長雨
彳亍や天高く詩人蘇る
蝗大群渤海国を見てきしか

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年8月号より

蒲公英の絮凱旋門を目指す        栗原 節子
だらだらと虚構の春を曲りけり      森村 文子
妖艶の刻あり壺に花あやめ        山口 彩子
泰山木咲けり千年の途上         廣谷 幸子
じゃがいもの花紛れもなく日常      米田 規子
嚢中に文庫一冊昭和の日         岩佐  久
だれにともなくおぼろ夜の遠いベンチ   青木 秀夫
山里にたっぷりと水昭和の日       小林 伸子
下総のはずれにしゃがみ草を刈る     愛甲 知子
黒猫婆裟羅金柑の花咲いて        大見 充子

<白灯対談より>

日暮まで本能のままいて跣        蓮尾 碩才
初めての山の日はるか古里よ       多田せり奈
遠くから見てほしいのとさるすべり    笹尾 京子
暑中お見舞東京に空ありて        松村 五月
夏の星息絶えている水の底        佐藤由里枝
赤べこのそうかそうかと盆の月      志鎌  史
吊橋の頼るものなく霧の中        塩野  薫
懸命ににいにい蝉と太陽と        相田 勝子
八月の喪服の日々をさびしめる      土田美穂子
対岸に父の背ありて遠花火        酒井眞知子
ほほえみのなかのかなしみ黒ぶどう    中野 充子
蝉声を斜めに過り人力車         川口 史江
大きめの靴であるいて夏の朝       笹本 陽子
黒髪をきりりと束ね冷奴         森田 成子

 

【山崎主宰の編集後記】

 繰り返し云うが、俳句の新しさとは、材料や言葉の新しさではなく、あくまでも、拵えの新しさである。”ものの見方の新しさ”と云ってもよい。徒に難しい言葉を派手に並べて珍奇な内容で人目を惹く、といった姿勢からは、ついに本物の詩は生まれない。
 ”普通のことを、普通の言葉で、普通に云う”は常に俳句の鉄則である。”ことばではなくてこころ”つまりはそういうことであろう。    (Y)

響焰2016年10月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→shusai_haiku_201610

加齢            山崎 聰

八月の余命したたか亀が浮く
炎天の崩れる音として加齢
蜘蛛の巣のきのうとちがう囲のかたち
大地かの夏草の先はみちのく
男と女ありありと虹の彼方
盆の月みちのくことのほか白し
落蝉の骸となりて運ばるる
満月の翌日しぶしぶと加齢
枝豆の青をたどれば深海魚
台風の眼の中ふいになまぐさく

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年7月号より

空の下で普通にくらし蝮草        森村 文子
厚き本抱え青年花の下          内田 秀子
永き日の輪郭としてゆで玉子       渡辺  澄
野遊びのつづきのように年取りぬ     中村 克子
三日だけ仙人も良し桃の花        紀の﨑 茜
あたふたと朝の筍五六本         小川トシ子
燕子花一歩も引かず尖んがらず      篠田 香子
日の色と月のいろもて花筏        君塚 惠子
五階親子三人花の昼           高橋登仕子
朧夜おぼろ深海魚の匂いして       大見 充子

<白灯対談より>

振りかえる余裕もなく蟇         多田せり奈
自販機の吐き出している夏の闇      松村 五月
突然に太鼓たたかれ盆おどり       笹尾 京子
潮の香のかぶさってくる熱帯夜      土田美穂子
足早に寡黙に丸の内八月         蓮尾 碩才
雲の峰遠いところに難破船        佐藤由里枝
旧道の人を遠ざけ桐の花         志鎌  史
夏休みがんばり屋の子はげまして     笹本 陽子
寺の鐘遠くで鳴って鱧の椀        酒井眞知子
向こう岸にあかりが見えて魂送り     飯田 洋子
定年や右往左往のあめんぼう       浅見 幸子
ゴーヤチャンプル反骨も混ぜており    波多野真代
プレートが押し合っている極暑かな    塩野  薫
花の名を忘れてしまい蟇         江口 ユキ
乱舞してここより知らず黒揚羽      川口 史江
ボーヴォワールの老いの小説夏霞     辻  哲子

 

【山崎主宰の編集後記】

 師は一人 ― これは俳句を学ぶ上での鉄則である。あちこち出掛けていろんな俳句を学ぶ、という人がいる。言葉は美しいが、初心者にとってはむしろ有害である。これでは結局俳句がわからなくなる。俳句入門してすくなくとも十年くらいは、一人の先生についてその俳句を徹底的に吸収する。これが上達の早道である。
 先生は一人。肝に銘じたい。    (Y)

響焰2016年9月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201609

くらりぐらり            山崎 聰

ともだちのともだちおうい牛蛙
父の日の平穏無事を訝しむ
白南風の遠い国から来て次郎
ひとりならついておいでよひきがえる
海の日の海の出口が見つからぬ
頸椎を伸ばして虹の根のあたり
旅の駱駝も大東京も暑気中り
八月の通り過ぎたる顔いくつ
晩夏晩節ひとりぼっちという快楽
炎日をくらりぐらりと一の坂

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年6月号より

四本の足で泳いで春の風         森村 文子
陽炎に押されたる人転びけり       小林  実
春潮といえば源平壇ノ浦         田中 賢治
声出せば人と繋がる春の空        沖 みゆき
雨合羽干して三学期の終り        佐々木輝美
おどろおどろに三月の水たまり      小川トシ子
春風とそのほかなにか紙袋        東  公子
陽は昇り陽はまた昇り雪解川       秋山ひろ子
三月十一日海に囲まれて生きて      愛甲 知子
対岸は立待岬蕗の薹           楡井 正隆

<白灯対談より>

ただ一つ男に似合う花しょうぶ      笹尾 京子
六月はA5出口を出て左          松村 五月
蚕が桑を喰む音さざ波いさら波      多田せり奈
もてあます蛍袋の夕まぐれ        志鎌  史
てのひらをこぼれるように燕巣立つ    佐藤由里枝
立葵素直に咲いて猫の道         土田美穂子
透明な川より来たる鮎なりき       笹本 陽子
蟻の列どこから声を掛けようか      相田 勝子
黒揚羽地図から消えて木挽町       蓮尾 碩才
さやさやと人におくれて竹の秋      中野 充子
祭りの夜なんじゃもんじゃの花真白    酒井眞知子
いちめんの十薬みんな倦んでいる     大竹 妙子
梅雨空のまんなかあたり宇宙船      森田 成子
花アカシア日暮れほろほろ来たりけり   飯田 洋子
人を待つはずして掛けてサングラス    川口 史江
遠き日の父の一喝夏の草         塩野  薫

 

【山崎主宰の編集後記】

 事実を積み重ねることで真実に辿りつく ― テレビの刑事ドラマなどでよく耳にする言葉である。しかし俳句のような文芸の場合は、事実をいくら積み重ねても真実に辿りつくとは限らない。むしろ事実は事実として受け入れた上で、事実から離れることで真実が見えてくることの方が多い 。
 もちろん事実は大切である。しかし事実を書くことに汲々としている限り、本物の詩 ― は真実はついに彼の前に姿を現わさないのではないか。俳句は刑事ドラマとは違うのである。    (Y)

響焰2016年8月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201608

それゆえに            山崎 聰

尺蠖の寸余はみだすこころざし
植田から湧き起りしは反戦歌
対岸がもっともさびし青時雨
暗い水のぞいて簗の二三人
はつなつの不承不承のかすり傷
数人無口緑蔭を帰るとき
父の日の父と活断層の真上
栄光なし青田ひろがり三輪車
この先はいかようにもと山椒魚
しかしあるいはそれゆえに重信忌

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年5月号より

玲瓏の冬満月と魂ひとつ         山口 彩子
球体の一角はがれ百合鷗         小林 一子
二月の海大魚の骨はすでに無く      沖 みゆき
寒空や飼い馴らされた販売機       紀の﨑 茜
どの家も寒さの残る東京都        関  花子
たましい還る寒明けの隅田川       河村 芳子
寒の月五体まざまざと透明        東  公子
植木屋の一気にこぼす冬日ざし      君塚 惠子
冬薔薇正面にある発光体         鈴木 瑩子
藪椿人を恋して咲きにけり        土屋 光子

<白灯対談より>

春の沖浚渫船二隻黒く          松村 五月
人間に倦きた順から鳥帰る        多田せり奈
その中に入ればむらさき花菖蒲      飯田 洋子
風景の黄昏れてきて鯉のぼり       土田美穂子
屈託や亀の背中に余花の雨        佐藤由里枝
散るときもまた無口なり白いばら     笹尾 京子
蟇よく見ておけよ水の色         相田 勝子
五月くる水色黄色風の中         志鎌  史
迷宮に似た地下の街こどもの日      蓮尾 碩才
そらをとぶあの大空の名は五月      大竹 妙子
みちのくは矢車草の淡き青        酒井眞知子
諦めてからの青空朴の花         中野 充子
いちめんにすずらんあふれ父の山     下津 加菜
かくれんぼ負けては泣いて夕薄暑     笹本 陽子
ふるさとへ続く大空青田風        森田 成子
とおくきて齟齬ふたつみつ桜の実     川口 史江
家じゅうに風を通して憲法の日      江口 ユキ
五月雨猫と教師のものがたり       辻  哲子

【山崎主宰の編集後記】

 俳句はもちろん何をどう詠ってもよい詩だが、とは云っても、俳句を読んでいて、何もこんなことをわざわざ俳句で云わなくても、と思うことがときどきある。それは多分、俳句が詩であること、文芸であることを忘れているからではないか。日常の些細な経験が出発点になっているのはわかるが、それをどうしたら詩の次元に高められるか、つまり現象でなく本質を云う、そのことにほんのすこし思いを至すだけで、その人の俳句はずいぶんと変わってくると思うのだが。    (Y)

響焰2016年7月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201607

残軀            山崎 聰

みみたぶもあしうらも春のあけぼの
野の鯉の噞(あぎと)う音も四月かな
彼と彼のともだち二人花のあと
人さがすことばを探す春の夕暮
残軀なお海にとどまり春深し
晩学のあしあとのよう花筏
花おわる海青くなる犬走る
咲いて散る勿忘草のなみだいろ
みんな生きているか立てるか昭和の日
天牛の同志のごとき面構え

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年4月号より

いつからか三が日もっともさみし     渡辺  澄
狐火の虚実集落よぎるとき        山口 彩子
しんしんと大陸枯れる犬走る       米田 規子
泣くとき笑う深川の女正月        加藤千恵子
人日やありのままのならそのままで    沖 みゆき
いまさらに播州竜野冬の夕焼       鈴 カノン
生きていたり死んでもいたり榾明り    紀の﨑 茜
大寒や言葉を交しお辞儀して       関  花子
猫の声人間の声春は梅          篠田 香子
しんしんと水に骨ある寒の入       大見 充子

<白灯対談より>

リラの風銀座教会から神父        土田美穂子
夜の首都高疾走すれば熱帯魚       松村 五月
読み書きとそろばん習い花蘇芳      志鎌  史
さくらはなびらわかれことばのはしりがき 多田せり奈
にんぎょうは人形として淑気満つ     河村 芳子
老人の直立不動万愚節          笹尾 京子
ひたむきに暮らして加齢しゃぼん玉    佐藤由里枝
言の葉の芽吹く音して春の山       酒井眞知子
無心から零れることば松の芯       中野 充子
知らぬ間に真ん中の席花大根       蓮尾 碩才
魂の攫われてゆくさくらどき       相田 勝子
つくしんぼ坐りたいとき椅子がある    笹本 陽子
ふるさとをはるか昭和の夕桜       飯田 洋子
風車つまずきながら廻りけり       川口 史江
花ミモザパン工房は丘の上        浅見 幸子
湾岸の伸びゆくビルに光る春       辻  哲子

【山崎主宰の編集後記】

 ”断捨離”ということがよく云われるが、俳句でも断捨離はたいせつなことである。思いを断つ(情を述べない)、不要なものを捨てる(本質だけを残す)、対象から離れる(客観視する)。具体的には、何を残し何を捨てるかを的確に判断する、ということである。特に初心者の俳句がいまひとつすっきりしないのは、捨てるべき不要なものを残し、本当にだいじなものを捨ててしまうからである。本当にだいじなもの(本質)だけを残しあとは全部捨てる、この判断の是非一句の成否を決める。心したい。    (Y)

響焰2016年6月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201606

風のポプラ            山崎 聰

すこしいびつこれが昭和のおぼろ月
御宿も勝浦も海菜の花忌
へろへろと春月いっせいにわらう
晩節は炎(ほむら)にもにて春の地震
春の虹飲食さわさわと気儘
卒業式フォッサマグナの東側
春月のかなしみ誰のせいでもなく
亀が鳴くから海見えるところまで
花影なお天に余りて朝の地震
相模なる四月青空風のポプラ

 

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年3月号より

短日のしんがり急ぐつもりなく     川嶋 隆史
蛇獣あまたを蔵し山眠る        石倉 夏生
隅田川冬のかたちをして光る      栗原 節子
冬桜昭和の穴へ急ぐなり        田中 賢治
着ぶくれて何かと言へば戦中派     小林 一子
冬の顔して踏切りの向こう側      加藤千恵子
うみやまのあわいを十二月八日     相田 勝子
ビング・クロスビーあかあかと十二月  河村 芳子
冬うららどう曲っても稲荷さま     高橋登仕子
十二月八日節穴から朝日        中村 直子

<白灯対談より>

自由とは風か小鳥か三月か       松村 五月
投函のふと瀬戸内の落椿        土田美穂子
湯島から本郷遠く花の雨        蓮尾 碩才
陽炎や砲台跡の白い砂         多田せり奈
一片の雲の色して春の小川       佐藤由里枝
兄が病む茂吉の里は雪深く       志鎌  史
さびしさの白集まって梅の花      笹尾 京子
菜の花忌雨の日比谷に集いいて     飯田 洋子
春の月それぞれの窓それぞれに     相田 勝子
雲上の森羅万象春の雷         酒井眞知子
春の雷今来たように六本木       大竹 妙子
行きたいと思うところにシャボン玉   笹本 陽子
春の日をリサイクル屋で長話      波多野真代
街角の身代り地蔵春の風        川口 史江
校庭に校歌ながるる花のころ      小澤 裕子
てふてふの白の輝きユモレスク     辻  哲子

 

【山崎主宰の編集後記】

 俳句は頑張ってやったから必ず良い句ができるとは限らない。これは長年俳句に関わってきて身に沁みて感じていることである。しかし、頑張って続けなければもっと悪い結果になる。これも長年の経験からはっきり云える。なんとも厄介なものに関わってしまったものと思う。

 それにしても、まさに”日残りて暮るるにいまだ遠し”の心境の昨今である。    (Y)

響焰2016年5月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201605

ふわりぷかり            山崎 聰

雪降りやまず一本ポプラの憂鬱
円周を見つめておれば春の水
三月がぽかんと立ってあまたの死
日脚伸ぶアメーバのように日脚伸ぶ
遠国へ逃げたし蕨餅食いたし
戦前といえば不忍のかいつぶり
一春灯ひとりのときをひとりでいて
春は来にけりピカソの絵皿にピカソ
ねむる木のまわりもねむり春耕す
あいつがぶらりかいつぶりふわりぷかり

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年2月号より

一過性恋心かも黄の公孫樹       和田 浩一
月夜茸硝子の舟に揺れながら      栗原 節子
黄落の街はルーペで覗くべし      森村 文子
ごうごうと地底の燃ゆる十三夜     山口 彩子
ひと束の十年過ぎぬ冬帽子       米田 規子
週末というだけで赤い大根       沖 みゆき
のぼさんの眼鏡のような後の月     鈴 カノン
天上は赤い実のほか何もなく      小川トシ子
うっすらとけものの臭い谷紅葉     あざみ 精
揺れている爪先立ちの十二月      大見 充子

<白灯対談より>

鶴唳やルージュで描くさようなら    多田せり奈
ローランサンの小犬とピアノ初御空   松村 五月
春疾風言問橋を人力車         志鎌  史
きもの解く記憶の中へもがり笛     笹尾 京子
梅ほのか小さな路地を曲がるとき    佐藤由里枝
仄暮れの街にともしび春近し      酒井眞知子
身の内の鬼も老いたり年の豆      相田 勝子
無心から溢れ出したる寒の水      森田 成子
国境を越えても同じ冬の村       蓮尾 碩才
春隣折り紙の蝶すこし動く       土田美穂子
春浅し最後のさいご夢のなか      笹本 陽子
大寒の真っただ中を軍用機       中野 充子
手品師がひらひら逝ってチューリップ  大竹 妙子
息を呑む五百羅漢図春の地震      川口 史江
百歳の筆致のたしか春に入る      辻  哲子

 

【山崎主宰の編集後記】

 六十年前に、”身捨つるほどの祖国はありや”と詠ったのは、早世した寺山修司である。(歌集『空には本』(昭和33)所収、<マッチ擦る束の間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや>)
 さらには現在、安保法、原発、沖縄米軍基地、そしてオリンピックに数百億円を支出しながら”保育園落ちた日本死ね”の声に有効に向き合うことすらできない、そんな国に私達は生きている。
 そういう一般国民の生き難い国の中で、心の詩である俳句を作ることの意味を、ぜひしっかりと考えて欲しいと思う。    (Y)

響焰2016年4月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201604

ささら雨            山崎 聰

体内を水かけめぐる二月かな
半眼でものを思えば凍てにけり
生者死者しどろもどろに雪が降る
飛鳥はとおし侘助ふたつみつよっつ
きょうひとり逝き大空から雪片
雪降って降るみちのくも奥の奥
鳥帰りそのしんがりの天馬かな
おおかみに父性のもどりささら雨
木の芽風戦争がそぞろあるきして
饅頭を食い日脚伸ぶなど思う

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2016年1月号より

震災忌過ぎ浅草の人力車        和田 浩一
火と水と夢の音して紅葉狩       森村 文子
あたらしい風小鳥来る父帰る      渡辺  澄
星月夜ときどきのぞく貝の舌      小林 一子
躓けば影ももろとも月の道       奈良岡晶子
とんぼうも齢も加速して迷う      河津 智子
山が呼ぶから十月の特急券       西  博子
穂芒やゆるやかに鉄路は西へ      高橋登仕子
憎らしき鳥に熟柿の十四五個      大見 充子
天の川から手紙くる行くことに     小林マリ子

<白灯対談より>

爆笑のあとの沈黙そぞろ寒       蓮尾 碩才
落葉舞う手足の細い少年と       松村 五月
少女くすくす桃色のシクラメン     土田美穂子
初詣置いてけ堀のよごれ猫       多田せり奈
うす闇をたどりてゆけば大旦      佐藤由里枝
動かざるふるさとの山七草粥      志鎌  史
道曲がるたび白梅の一二輪       笹本 陽子
雪が降る過ぎしいろいろ消しながら   相田 勝子
お気に入り一つ身につけお正月     笹尾 京子
年賀状いつもの猫のほかは猿      江口 ユキ
冬木立鳥の声なく風もなく       小澤 裕子
ほつほつと小犬と老人大枯野      浅見 幸子
山茶花の白をこぼして父の旅      酒井眞知子
合理的家事散乱を許して冬       大竹 妙子
おのが影に躓いている羽抜鶏      中野 充子
極月の呟き洩れてアップルタルト    波多野真代
序破急の型を演じて冬の風       平尾 敦子
どんどんと過去は不詳に朝の雪     川口 史江

 

【山崎主宰の編集後記】

 ”何”を”どのように”書くかは、俳句にとって大きな問題である。しかしこれほど不確かなものもない。作家の川上弘美さんは、(小説において)”何”と”どのように”は不離できない、と云う。そして”何”が最初からあるわけではない。”どのように”の選び方によって”何”は変化する。それにつれて”どのように”も移ってゆく、と云っている。助詞一つで全体の意味が全く変ってしまう俳句のような小さな詩型では尚更で、思い当ることが多い。    (Y)

響焰2016年3月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201603

ささらほうさら            山崎 聰

戦前の亀のごとくに生きて冬
雪国雪見るともなしに人体図
京都から白い人来る冬が来る
さみしさは無明の谷の雪だるま
ふくろうに吉野はやさし峠闇
降る雪のささらほうさらよぼろくぼ (注:よぼろくぼ=膕(ひかがみ))
ビードロのうすくらがりの寒さかな
てのひらを雪虫が這う疲れけり
雲のような少年といる冬座敷
寒月の極みのいろを巌の上

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2015年12月号より

常識にこだわり夜の轡虫        和田 浩一
年寄りにとてもおもたい九月の陽    栗原 節子
月に向け舟漕ぐ人も月の客       小林  実
鉄板に跳ねる音など夏も果つ      渡辺  澄
秋晴をこんなに待ったことは無く    川嶋 悦子
立ち泳ぎしているような暑さかな    紀の﨑 茜
嘘も嘘これぞ大嘘曼珠沙華       小川 英二
老いるのははじめてなので栗拾い    河津 智子
あかとんぼ子の生まれんとする家に   内田 厚
水戸駅に美しき人九月果つ       小林 伸子

<白灯対談より>

母の忌も波郷忌もすぎ冬りんご     志鎌  史
いさましく鰹節かく年の暮       笹尾 京子
冬の朝大きな椅子にまず沈む      松村 五月
クリスタルガラスきらきらクリスマス  多田せり奈
山茶花の白を極めて原節子       相田 勝子
冬薔薇一瞬止みて円舞曲        笹本 陽子
母の背のやさしくまるく聖夜かな    佐藤由里枝
正位置にリンパ血管冬至の湯      酒井眞知子
冬桜自己主張ってどんな色       波多野真代
故郷に少年のいて飼い兎        土田美穂子
日溜りに柊の花少女いて        小澤 裕子
絵はがきにご無沙汰とだけ冬の海    蓮尾 碩才
重きもの削ぎ落したき冬の蝶      川口 史江
丸の内抜ける靴音クリスマス      飯田 洋子
山門過ぎそして唐門漱石忌       辻  哲子

 

【山崎主宰の編集後記】

 ”空想と想像の違いは、後者は根拠に基づいてなされること”とは、柳田国男の言葉。
 俳句は想像力の勝負、作者と読者の想像力のせめぎ合いだと思っているが、この場合の”想像力”はもちろん柳田の云う”根拠に基づいたもの”であって、根も葉もない嘘や、単なる夢想などであってはなるまい。
 ”実に居て虚を行ふべからず、虚に居て実を行ふべし”と、かの芭蕉も云っているではないか。    (Y)

響焰2016年2月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201602

かくて冬            山崎 聰

十二月たちまち失せて持ち時間
極月が荒野を凜と来たるかな
通り抜けたる北風の先が海
十二月あしたの風のこえを聞く
鬼火ともみちのくははるかに暮れて
吹く風のひとりに寒く塞の神
新十二月ごつごつと父母祖父母
もとよりの言語道断空っ風
十二月八日の朝の地鎮祭
葡萄酒と壺の岩塩かくて冬

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2015年11月号より

八月の空はいつでも青い一枚      森村 文子
桃熟すいずれも還る途中なり      小林  実
終戦忌左脳に残るかすり傷       田中 賢治
法師蝉フォッサマグナに関わりなく   廣谷 幸子
百日紅まひるの闇に息をして      米田 規子
サングラス外してからの別の道     中村 克子
白い脚二本夾竹桃の陰         伊達 甲女
手も足もみんなはずして夏休み     篠田 香子
人体の水に溺るる熱帯夜        君塚 惠子
八月の涙はあおく青のまま       鈴木 瑩子

<白灯対談より>

枯れ菊のまるい時間を束ねけり     多田せり奈
お互いを見て見ないふり菊人形     笹尾 京子
蓑虫の憂鬱こんなに広い空       松村 五月
孤独ってこんなものなり木守柿     笹本 陽子
ピラカンサ戯曲のように窓の影     波多野真代
天高く欠伸して旅始まりぬ       志鎌  史
秋晴の空の端っこ富士筑波       蓮尾 碩才
風邪心地宇宙の果てを見て戻る     相田 勝子
ほころびし記憶の底に返り花      酒井眞知子
風葬の白樺木立秋日落つ        土田美穂子
ちちははに寄り添うように木守柿    下津 加菜
秋の暮鬼哭のごとく鷗鳴く       岩政 耀男
秋の雨今日はこれから熱海まで     五十嵐美紗子
石庭の渦より生まれ冬の蝶       川口 史江
曳き売りの焼芋うまし戦中派      辻  哲子

 

 

【山崎主宰の編集後記】

 芭蕉に”句は天下の人にかなへる事やすし、一人二人にかなふる事かたし”という言葉がある。要するに一般受けのする句を作るのは易しいが具眼の士に認められるような句を作るのは難しい、ということである。私達の俳句に置き換えて云えば、たくさん点の入るような句は警戒を要するということで、それよりもこの人と思う士に評価されるような句を作るべし、ということになろう。

 師(先生)は一人ということとも通底する大切なことである。    (Y)

響焰2016年1月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201601

人のくらし            山崎 聰

蛇穴に入りたるあとの人のくらし
綿虫のよく飛ぶ日なり喜八の忌
海抜二百米の空っ風
木枯一号わあんわあんとけもの
冬までのしばらくを濃き遠山河
陽の底で冬菜を育て小さくいる
今も極道白山茶花咲いて散り
生死あり木枯一号のゆくえ
晩節は柞の山の奥の奥
月山はいまだ遠くて吊し柿

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2015年10月号より

柩出てゆっくり曲がる炎天下      栗原 節子
石段の暗がりで買うきりぎりす     森村 文子
細き壜危うく立ちて芙美子の忌     内田 秀子
しばらくは生者の側にいて円座     小林  実
もの云わぬ一頭として黒揚羽      加藤千恵子
水に流して水流す夏夕べ        沖 みゆき
脳髄に昔の蟻が這うような       紀の﨑 茜
蓮の花うつらうつらと二千年      金  松仙
大夕焼燠のようなる村一つ       君塚 惠子
魂も連れて寄せくる土用風       鈴木 瑩子

<白灯対談より>

橋渡る今年最後の秋の風        笹尾 京子
対岸の黄なら明るく泡立草       土田美穂子
十月や見て考えてそして笑う      笹本 陽子
うぶすなの風のかがり火稲穂波     多田せり奈
同じ色同じ思いを山の柿        相田 勝子
旅の雨長引く気配こぼれ萩       蓮尾 碩才
青空はコスモスのため明日のため    松村 五月
秋分の日本気で泣いて赤ん坊      志鎌  史
千畳敷カールざわざわ秋を踏む     飯田 洋子
精神の闇を灯して銀木犀        酒井眞知子
とろとろと魂つれて秋の蝶       大竹 妙子
黙然と幾多郎読みて日短        岩政 耀男
右は街左は海へ秋日和         江口 ユキ
ひとつ得てひとつは捨てて冬支度    川口 史江
自転車でいつもの小径金木犀      小澤 裕子
枯葉舞う曠野のかなたラフマニノフ   辻  哲子

 

 

【山崎主宰の編集後記】

 最近読んだ詩に<未整理の過去と手探りの未来との間に、点描でしか描けない現在がある>というのがあった。(伊藤伸明「とつとつな音」)

 昨日はもう過去、今日も明日になれば過去で、まさに未整理なままどんどん過ぎ去ってゆく。そして、未来は何も見えない。過去と未来をつなぐ現在はと云えば、ともかくもただ生きて、おろおろと何かをしているだけである。

 私達の俳句も、未整理の過去を引きずりながら、見えない未来を手探りしてあがいている現在を書いているのだろう。    (Y)

響焰2015年12月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201512

荒野            山崎 聰

鰯雲バビロンいまも青く濃く
螻蛄鳴くと山のかなしみ灯のかなしみ
秋の七草横顔ばかりにてさびし
そして荒野月すこしだけ欠けている
男来て一気に崩れ秋の闇
豊葦原瑞穂の国の運動会
恙なきか遠山すでに雪来しか
秋ふかく山にいて海のことおもう
かつてここ鷹匠の里陽が昇る
純粋はそぞろに寒く喜八の忌

 

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2015年9月号より

舟で来て舟でかえりぬ花樗       森村 文子
草笛を吹きしことなく故郷なく     内田 秀子
蛍狩夜空がおちてくるまえに      渡辺  澄
春の泥男ぎらりと生還す        鈴 カノン
疑問符の形ほどけず蝸牛        紀の﨑 茜
庭仕事せよと圧力梅雨間近       米田  透
水無月の紫の中歩きけり        岩崎 令子
もろもろの海を束ねて南風       金  松仙
少年の大志のような五月の木      田部井知子
青嵐一角獣の鼻の先          鈴木 瑩子

<白灯対談より>

一葉落つ白い運河に白い舟       石井 昭子
火の玉のような八月海凪ぎて      小林マリ子
くらがりの曼珠沙華なら火の国へ    大見 充子
籐寝椅子半分は夜になっている     松村 五月
釣竿の大きくたわみ秋日和       佐藤由里枝
休暇明けでこぼこといる子供たち    笹尾 京子
ふる里は日毎に遠く月見草       志鎌  史
薄紅葉だれかが居てもいなくても    笹本 陽子
獺祭忌なおふかぶかと九月の椅子    多田せり奈
たまごかけごはん二人の二百十日    相田 勝子
圧倒のボーイソプラノ星飛べり     波多野真代
月の影町を静かに休ませて       小澤 裕子
半球のいずこを通る秋燕        酒井眞知子
雨の日は雨の香となり金木犀      浅見 幸子
列島は秋の咆哮ただ眠る        大竹 妙子
不可解は不可解のまま居待月      岩政 耀男

 

【山崎主宰の編集後記】

 相撲や剣道、柔道といった一対一の格闘技は、少しでも無駄な動きがあると負けるという。特に積極的なミスがなくても、ほんのちょっとした無駄な動きが即負けにつながるというから怖い。
 翻って俳句のような極端に短い詩の場合も無駄な言葉が命取りになることは経験が示している。重複する言葉やもの云い、あるいは意味のない言葉は、一句に緩みをもたらし凡作に終る。これを防ぐには、日本語に習熟することはもちろん、本をたくさん読むなど不断の訓練が欠かせない。 (Y)

響焰2015年11月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201511

おわりのはじまり            山崎 聰

きょうだけは溺愛されて兜虫
雲の峰目鼻崩れて忘れらる
一瞬の齟齬そのあとの蝉の声
逝き遅れしか八月のあぶらぜみ
残り蚊とたたかう力あるにはある
耳やわらかく九月はじめの第一歩
滅びつつ滅ぶ倭の国蚯蚓鳴く
地震津波竜巻出水生きていま
おわりのはじまりか列島霧深し
手を振って別れてきしが今朝の秋

 

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2015年8月号より

遠景の六月ほのぼのとありぬ      栗原 節子
海に帰れば端正なるあめふらし     森村 文子
ぎしぎしの花戦争に来て死せり     渡辺  澄
諸葛菜退屈さうな象の耳        小林 一子
触れれば凹み八十八夜の満月      川嶋 悦子
みどりの日近景漠としてたしか     沖 みゆき
五月雨尻尾のような足を組む      鈴 カノン
夜の橋からんからんと裸なり      紀の﨑 茜
おぼろ月家出するには何か足らぬ    和田 璋子
潮ぬれて魚も濡れて五月の朝      秋山ひろ子

<白灯対談より>

人間の欲を削って氷水         笹尾 京子
夏は水玉人に悪玉コレステロール    石井 昭子
こころ定まり八月の赤い月       小林マリ子
がさごそと夏の思い出離岸流      大見 充子
みちのくの英雄伝説夏の雲       佐藤由里枝
纜を探しあぐねて昼寝覚        相田 勝子
音もなく老いゆく力大西日       笹本 陽子
七十年七十二億の夏の空        多田せり奈
空蝉や貴人の衣美術館         志鎌  史
少年は釣り蝙蝠の赤き夕        土田美穂子
あらん限りの声張り上げて秋の蝉    波多野真代
川満ちて合歓の花咲く散歩道      酒井眞知子
グレゴリオ聖歌の流れ明易し      辻  哲子
幾億の糸のかたまり蝉時雨       大竹 妙子
夏深し東京メトロ湯島駅        飯田 洋子
海の日や静かに暮れる丸の内      蓮尾 碩才

 

【山崎主宰の編集後記】

 俳句はつまるところ、自分との闘いである。発表するからには、相手に伝わって欲しいと思うのは人情だが、それよりも”己に伝わる(納得する)か”はもっと大切であろう。
 だいたい自分が納得していないものを、他人が理解する道理がない。場を盛り上げるために選をしたり、コンクールで優劣を競ったりするが、そのような一過性の評価などはどうでもよいこと。自分の魂とどう切り結んだか、どう闘ったかこそが問われなければならない。他人の評価はあくまでも単なる参考と心得たい。
 ”高点句に秀句なし”という昔からの箴言もある。   (Y)

響焰2015年10月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201510

俺のうしろ            山崎 聰

遠く来て遠く帰りぬ日の盛り
老人と老人無言青時雨
来るな来るなと言っても八月は来る
みんないて誰かがいない夏の空
沈黙の一瞬法師蝉還る
炎天の近くて遠きものばかり
木という木風という風八月忌
夏の月俺のうしろは寂しかろ
退屈な二人のかたち八月尽
慟哭のそのときまでを秋の蝉

 

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2015年7月号より

ひとりずつおもう大きな春の月     栗原 節子
汐まねき悪童はいつもまっすぐ     森村 文子
清明や足音はわが家を過ぎて      渡辺  澄
おおよそを眠りときどき花水木     加藤千恵子
頑に莟を並べ紫木蓮          新川 敏夫
紫木蓮途中下車できないものか     田畑 京子
春の星百年先もみそっかす       金  松仙
大八洲八十八夜の句読点        岩佐  久
春の風三半規管から他人        篠田 香子
貝寄風や戦をやめて哭かないで     愛甲 知子

<白灯対談より>

瀬戸内の蛸を煮ており日の盛り     佐藤由里枝
かたつむり山の夕日へ向かいけり    大見 充子
すぐそこにいつも太陽夏休み      石井 昭子
浮世絵の昭和のいろの丸うちわ     小林マリ子
サングラスはずし小さな旅終わる    笹尾 京子
ひとつふたつみっつうかうか夏の果て  志鎌  史
涼しさは砕ける前の波の音       笹本 陽子
あんぐりと河馬の歯みがき風青し    多田せり奈
やじろべえの優柔不断熱帯夜      相田 勝子
あの夏のあの一日を千羽鶴       酒井眞知子
くろぐろと昼の運河を夏の蝶      川口 史江
白南風や哲学の道ひとりの道      浅見 幸子
歳月を真っ赤に染めてカンナ咲く    土田美穂子
勤勉と狂気のはざま蟻の列       蓮尾 碩才
麦の秋二峰筑波の座りよし       菊地 久子
梅雨深しショパンの音のなかにいて   辻  哲子

 

【山崎主宰の編集後記】

 人は二回死ぬ、と云われる。一回目は文字通り肉体が滅びたとき、そして二回目は、その人を知った人がこの世に誰も居なくなったとき、という。
 肉体の死は常識的にもよくわかるが、もっと痛切なのは、自分を知った人が誰も居なくなることである。狂おしいほど恐ろしいと思う。
 先師和知喜八先生が逝って、この10月で11年になる。響焰の同人でも先生を知っている人がずいぶんと少なくなった。時代の移り変りとはいえ、淋しいことである。   (Y)

響焰2015年9月号より

【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201509

ほつりほつり            山崎 聰

加齢いよいよリラ冷えのこの明るさ
みちのくはもはや日暮ぞひきがえる
余生なお熱きいろいろさくらんぼ
動脈は波打ってきょうも梅雨空
炎天を来る影持たぬ人おおぜい
動詞助詞助動詞夏の雨が降る
茫としておれば呆とし日の盛り
八月がなんにも言わぬ父と来る
なお生きて遠く夏野をほつりほつり
八月のやっぱり今日はさびしい日

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2015年6月号より

白鳥の睡り乳母車に眠る        和田 浩一
几帳面すぎはしないか冬木の芽     栗原 節子
本箱に亀鳴くことを誰も知らず     渡辺  澄
沈丁花少年闇に蹲る          川嶋 悦子
鼻はるばると判子を押しに春一番    紀の﨑 茜
大切なものまで隠し春霞        亀谷千鶴子
桜貝溺愛されていたような       小川トシ子
三月の光がひかり押してゆく      西  博子
遠足の一団と降り海の駅        田部井知子
とむらいに行かず見ている牡丹雪    佐藤  鱓

<白灯対談より>

早苗月一本道のこころざし       多田せり奈
海へ向く千のひまわり千の闇      石井 昭子
梅雨の街人間だけが傘さして      笹尾 京子
青葉風立像いまも昭和見て       小林マリ子
可惜夜の待つ身を細く月見草      大見 充子
始祖鳥の生まれるころか五月闇     佐藤由里枝
太宰の忌まだこの国の若き頃      相田 勝子
はつ夏の中央アルプス駒ヶ岳      志鎌  史
ぐずぐずと眠りの時間夏はじめ     笹本 陽子
夏兆す埴輪の口とふたつの眼      浅見 幸子
草原にニケの両翼青嵐         酒井眞知子
赤人と手兒奈の里の立葵        辻  哲子
東京の闇をあかるく花十薬       中野 充子
走り梅雨花束と乗る昇降機       飯田 洋子
六月やひとりひとりに銀の雨      森田 成子
合歓の花風あるときは語らいて     土田美穂子
雨の薔薇アントワネットの舞踏会    波多野真代
絵扇子を開けば水の匂いして      川口 史江
信濃から雨の越後へ山法師       蓮尾 碩才

 

【山崎主宰の編集後記】

 ”完璧が達せられるのは、付け加えるものが何もなくなったときではなくて、削るものが何もなくなったときである”とは、フランスの飛行家で作家のサンテグジュベリである。
 私達の俳句に完璧など望むべくもないが、それでもこの箴言はそのまま当てはまる。俳句を推敲するとき、ともすれば何かを加えることに熱心である。そうではなく、まずぎりぎりまで削って、そのあとで削ったところをどう補うかを考える。そうすれば私達の俳句も随分と様変わりするのではないか。 (Y)