**散文と韻文**
参加者34名、投句数68句、2月1日投句、2月7日選句。
主宰の句評に「やや散文的」との言葉がありましたが、散文と韻文はどのような違いがあるのでしょうか。散文的を辞書で引くと「詩情に乏しいさま」とあります。つまり詩になっているかどうかと言うことでしょうか。山崎先生は「最近の俳句は散文化の傾向が著しい。俳句はあくまで韻文であることを、肝に銘じたい」(『シマフクロウによろしく』より)と指摘しています。
参加者34名、投句数68句、2月1日投句、2月7日選句。
主宰の句評に「やや散文的」との言葉がありましたが、散文と韻文はどのような違いがあるのでしょうか。散文的を辞書で引くと「詩情に乏しいさま」とあります。つまり詩になっているかどうかと言うことでしょうか。山崎先生は「最近の俳句は散文化の傾向が著しい。俳句はあくまで韻文であることを、肝に銘じたい」(『シマフクロウによろしく』より)と指摘しています。
参加者35名、投句数60句、1月1日投句、1月7日選句。
あざみ精さんの訃報を知ったのは、一月七日まさにネット句会の結果を纏め参加者に送信しようとしているところでした。
あざみ精さんはネット句会の選句も特選の句評もきっちり済ませ旅立ちました。本当に俳句が好きで、会えばいつも俳句の話ばかり、長い闘病生活のなかでも常に前向きに俳句に取り組んでいました。元気であれば響焰を背負っていたであろう彼の逝去は残念でたまりません。そんな彼の姿を思い出しながら辞世となった句「沈黙か静寂か大つごもりは」を読むと万感が胸に迫ります。
謹んでご冥福をお祈りします。合掌。
参加者35名、投句数70句、12月1日投句、12月7日選句。
久しぶりに再開した東京句会の句評の中で、山崎先生は「俳句は独断と偏見でよい」と話していました。普通独断や偏見と言う言葉は、あまり良くない意味で使われますが、先生は「十七音という短い形の中で、細かく説明するのは無理。こうだと云い切ることで逆に読み手の賛成を得る。曖昧なことははっきり、はっきりしていることは曖昧にが俳句の極意」と話されていました。
参加者34名、投句数68句、11月1日投句、11月7日選句。
俳句は見えないものを見ることが必要と言われていますが、「新しい発見」とはまさに見えないものを見つけたことなのでしょう。「見たものの奥にある見えないものを書く、俳句とはつまりそういうことではないか」と山崎先生は述べています。
感性を研ぎ澄ませないと事象の奥にある真実にはなかなか到達できません。
参加者38名、投句数76句、10月1日投句、10月7日選句。
今月から特別選者として和田浩一さんに参加いただくことになりました。選者が増えることにより皆さんの俳句に良い影響が出ることと思います。
参加者37名、投句数74句、9月1日投句、9月7日選句。
省略は俳句を作る上で避けて通れない課題です。山崎先生は省略について「思いを断つ、情を述べない、不要なものを捨てる、本質だけ残す、対象から離れる、客観視する。往々にして初心者の俳句は、捨てるべきものを残し、本当に大事なものを捨てている。例えば吟行などで、見たものを全部捨て、本当に心に残ったことを少しだけ俳句にすればよい」(『シマフクロウによろしく』から抜粋)と指摘しています。
この言葉を心に刻み次回も頑張りましょう。
参加者37名、投句数74句、8月1日投句、8月7日選句。
今月の米田主宰の特選句の句評に「景が鮮やか」との言葉がありました。よく句会では「景が見える」や「景が鮮やか」と言いますが、短い表現で全体が見えると云ったことだと思います。
かつて<百日紅まひるの闇に息をして 米田規子>の句に山崎先生は「炎天下に咲く赤い花は、必ずしも華やかで美しい印象はない。茶色く樹肌を曝した枝に暗鬱な花をつける百日紅は、むしろ晩夏の頽廃の匂いさえする。〝まひるの闇に息をして〟は、そんな百日紅の咲く夏の午後の、澱んだような、それでいていのちの暗い蠢きを蔵したような状況を云って、最小限の表現で、大きな内容を伝えている。」(「響焰」平成二十八年三月号)と評していました。
「最小限の表現で大きな内容を云う」ことこそ俳句の醍醐味だと感じました。
参加者40名、投句数80句、7月1日投句、7月7日選句。
山崎先生からは「句会が無いせいか全体的に低調」と厳しい意見をいただきました。句会は自分の発表の場と同時に、選句を通して他の人から俳句を学ぶ場です。句座が無いと云うことは、それだけ感性が磨けていないということでしょうか。
何年も前の東京句会ですが、ある句を巡り山崎主宰(当時)と選句者の間で激しい意見の応酬があったことを思い出します。東京句会は作者が名乗らないこともあり、より辛辣な意見が出て、それだけに大変勉強になりました。
早く状況が改善し句会が開催できるようになることを切に願うのみです。
参加者39名、投句数78句、6月1日投句、6月7日選句。
今月の山崎名誉主宰の特選句の句評に「云えている」とありました。
俳句を作る時に、俳句になる対象を全部表現するのではなくほんの一部だけを取り出すことが求められます。山崎先生は「俳句に出すときは、その中のごく一部、ほんのすこしだけをさりげなく云う。云わなかった思いや言葉は、必ず云ったことの行間に滲んでいるものだと思う。たくさん考えてすこしだけ云う。俳句という詩の強さはこのへんにあるのではないか。」(『続シマフクロウによろしく』より引用)と述べています。
行間の滲みを生かして俳句を作ることはなかなか難しいものです。
参加者39名、投句数78句、5月1日投句、5月7日選句。
山崎先生の句評に「すっきりと読める句」とあります。俳句は作者と読み手が共鳴しあう文芸と言われていますが、俳句を読む時の注意点として先生は次の五点を挙げています。
「(1)どういうことを云おうとしているか、(2)十分に云えているか、(3)詩情は十分か、(4)正しい韻文になっているか、(5)俳句で云って面白いことか」(『シマフクロウによろしく』から引用)。作者の意図を伝えることはなかなか難しいことです。
参加者36名、投句数72句、4月1日投句、4月7日選句。
今月、山崎先生が特選句とした楡井さんの句の句評に「季語が効いている」との言葉がありました。
季語について山崎先生は「季語が、とってつけたように、私はここにいますとばかり居据っている俳句は、概してつまらない。あとから季語の存在に気が付く、そういうさりげないのが好もしい」と『続シマフクロウによろしく』で述べています。歳時記に頼らず主体的に季語を見つけて使うことが必要と感じました。
参加者37名、投句数74句、3月1日投句、3月7日選句。
今月の山崎先生が特選句とした句の句評に「俳句は体言の文芸であることを痛感した」とありました。
体言について先生は「極言すれば、俳句は体言の文学だと云ってよいのではないか。(中略) 用言、つまり動詞、形容詞などは、事柄を説明するためにある言葉である。だから一句の中に用言が多いと、どうしても全体が説明的になる。(中略) 体言、つまり名詞の切れ味を生かす。案外こんなところに俳句上達の秘訣があるかも知れぬ。(『シマフクロウによろしく』から引用)」と言っています。
しかしただ名詞を脈絡もなく並べても当然俳句にはなりません。そこには何らかの言葉の関連性や適切な助詞の配置が必要になります。季語とあいまって切れ味の良い言葉探しはまだまだ続きます。
参加者39名、投句数78句、2月1日投句、2月7日選句。
今月の山崎先生の特選句の句評に「上手い句」と言う表現がありました。
山崎先生の著書『シマフクロウによろしく』で、「うまい」という項目から引用しますと、<うまいことは大切だ(中略)。ただうまい句が必ずしも読者の心を打つとは限らない。(中略)長い間俳句にかかわっていると、テクニックは当然うまくなる。それと反対に、感受する心は鈍ってくる。そんなとき、強引に力わざで俳句を作ってしまう自分に気が付いて、愕然とする。>とあります。
山崎先生にしてこの自戒、私たちは技術と同時に感性を絶えず向上させることが大切と云うこちでしょう。
参加者35名、投句数70句、1月1日投句、1月7日選句。
山崎先生からの講評に「見たものを自分の中でどう変身させるか、それが詩とそうでないものの境目です」との言葉がありました。
俳句・詩にするためには、赤い花をただ「綺麗に赤く咲いている」としても、俳句・詩にはならない、そこに自分の感性から滲み出る思いもかけない言葉で、読み手の感動を誘うように表現する必要があるのでしょう。しかしこれを実行しようとするのは大変難しい。やはり言葉と感性の蓄積と、それを自分の言葉として表すにはかなりの努力が必要だと思いました。
皆さん頑張りましょう!
参加者35名、投句数70句、12月1日投句、12月7日選句。
山崎先生のコメントの中に「事柄の句」と言う指摘がよくみられますが、「事柄」とは何のことでしょうか。辞書では「物事の内容・模様・様子または、物事そのものを言う」とあります。要するに世の中に転がっている事象ですが、ただそれだけを俳句にしても意味をなさない。その中に詩情が無ければ俳句にならないというここと思いました。
参加者35名、投句数70句、11月1日投句、11月7日選句。
詩歌や文章の表現を豊かにする手法に「修辞技法」というのがあります。古くから「文彩」や「言葉の彩」などと言われ、私たちが普段無意識に会話や文章の中で使っているものです。
その修辞技法の一つに「比喩(ひゆ)」という形があり、山崎先生のコメントは、これをうまく活用すると、俳句の中身が数段良くなると言うことではないでしょうか。
比喩とは「字・語句・文・文章・出来事・作品全体などの物事を、それと共通項のある別の物事に置き換えて表現する手法である」(出典:フリー百科事典『ウィキペディア』)。
俳句も読み手にその句を生き生きと実感させるように比喩を使いたいのですが、下手に使うと句意が分からなくなり、やはり相当修練が必要なようです。
参加者37名、投句数74句、10月1日投句、10月7日選句。
山崎先生からいただいた各句のコメントを見ていると、言葉の使い方、選び方がいかに大切かということが理解できました。
一句の中の何処にどんな言葉を入れるか、「上五又は中七を変えたら良くなる」のアドバイスは簡単なようで本当に難しいと感じました。
参加者37名、投句数74句、9月1日投句、9月7日選句。
山崎先生から今月の選句を頂くにあたり「事実を事実として云ってもつまらない。〝虚実は皮膜の間〟が大切」と短いコメントがありました。
〝虚実は皮膜の間〟とは何か?
よく理解できないため調べたところ、近松門左衛門の芸術論であることがわかりました。近松は「事実と虚構の微妙な境界に芸術の真実がある。皮膜とは皮膚や粘膜つまり極めてうすいところ、従って虚と実が区別できないところに本当の芸がある」と説いています。
俳句も同じで、事実を事実としてだけ詠むのではなく、事実と虚実の微妙な間を詠む芸術なのでしょう。(出典:三省堂 新明解四字熟語辞典)
参加者37名、投句数74句、8月1日投句、8月7日選句。
ネット句会も3回目となり参加者は、光焰集作家3名、朱焰集作家5名、青焰集作家4名、白焰集作家11名、白灯集作家14名となりました。この多彩な参加者を見ると、ネット句会はまさに『毎月の俳句コンクール』です。
皆さん練りに練った2句を投句し、厳しい目で選句する楽しくも緊張した句会になりました。