響焰俳句会

ふたりごころ

響焰誌より

響焰2019年5月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201905


草加越谷     山崎 聰


望郷は春のはじめのわらべ唄
春眠のところどころの海の景
きっかけは春の小径をもうすこし
春塵の草加越谷みちのくへ
呼ばれたようでふりむく花の昼
春北風亀の甲羅の二つ三つ
永き日をことりと座り夢の中
竹林の雉子(きぎす)が鳴いて一軒家
春眠のつづきのように阿弥陀さま
石投げて石に当りぬ暮の春

 

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2019年2月号より

コスモスの薄青い部屋ゆめのゆめ     森村 文子
日の暮は風の底見え石蕗の花       山口 彩子
かりそめのものを並べて酉の市      川嶋 悦子
人間を長く伸ばして襤褸市に       鈴 カノン
星ひとつ空の余白へ時のそとへ      紀の﨑 茜
十月の放物線に安房の海         小川トシ子
照ったり曇ったり雪囲いしていたり    秋山ひろ子
石段に花束冬の三四郎          楡井 正隆
やや傾ぎ十一月は舟のよう        松村 五月
さざんか散りさらわれてゆく白い町    波多野真代

 

<白灯対談より>

春二番エルム通りの和菓子店       川口 史江
立春のきのうとちがう色の影       小林多恵子
わたくしの場所お日様とたんぽぽと    北川 コト
きさらぎのそこだけ赤い演芸館      廣川やよい
ふゆざくら夢から覚めて夢の中      相田 勝子
やさしい色のドロップの缶阪神忌     金子 良子
葉ボタンの奥のむらさき夕明かり     大森 麗子
ひんやりとちいさなくらし二月尽     大竹 妙子
おだやかに一日が過ぎ石蕗の花      江口 ユキ
梅日和明日を探して世界地図       田口 順子
この地球自転ゆっくり初日の出      辻󠄀  哲子
北窓ひらく仲良しの鳥来ておれば     笹本 陽子

 

 

【山崎主宰の編集後記】

 先年亡くなった落語家の立川談志が、生前<人間の業の肯定を前提とした一人芸が落語だ>と云っていたが、これはまさに私達の俳句にも当てはまることではないか。

 業とはつまり人間の根源的な宿命、ということだろうから、俳句もまた人間の宿命を受け入れた上で、その在り様を書く一人芸にほかならない。

 そう思うと、この広い宇宙に我一人立つ、との思いはいよいよ深くなる。       (山崎)

響焰2019年4月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201904


なあみんな     山崎 聰


石段を十段あまり寒北斗
童心のひとつこぼるるぼたん雪
鈍色の空を残して雁帰る
春一番ニューヨークから女客
戦争をしばらく知らず影朧
対岸のまひるの景として雲雀
三鬼の忌とりわけ赤いひとところ
くっきりと昭和平成春の濤
列島の暮れ泥みたる春の景
春だからのんびり行こうぜなあみんな

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2019年1月号より

木の瘤が瘤の夢見る月夜かな       石倉 夏生
お日さまとクリームパンと茨の実     森村 文子
秋の夜ひたひたと黒人霊歌        川嶋 悦子
戦争の曖昧模糊と死者の数        鈴 カノン
えそらごとまことまぼろし芒原      岩崎 令子
渋柿といえど八十路のふくらはぎ     青木 秀夫
まんじゅしゃげ後ろ姿を見たような    秋山ひろ子
あの日からさらわれたままいわし雲    笹尾 京子
丸善に何を置こうか十月は        松村 五月
堕天使のラッパとどろき野分あと     波多野真代

 

<白灯対談より>

実南天闇に華やぐ生活かな        川口 史江
電柱が正しくならび冬満月        小林多恵子
咲いてもひとり白椿紅椿         北川 コト
蠟梅の神田川から明けはじむ       廣川やよい
駅ひとつ乗りこして見る冬の月      中野 充子
人と人こんがらがって氷柱かな      金子 良子
去年今年あなたの海はまた深く      大竹 妙子
凍蝶のかすかな光残し逝く        相田 勝子
一発逆転あかあかと大旦         小林 基子
新潟の人から届く寒見舞         江口 ユキ
宇宙から素粒子の声山眠る        田口 順子
福笑い年齢自由自在なり         笹本 陽子

 

 

【山崎主宰の編集後記】

 俳句は、製作(作句)一割、推敲九割と心得ている。製作はいってみれば思い付き、つまりきっかけである。それに肉付けをしていのちを吹き込むことで、俳句というかたちに仕上げるのが推敲である。だから推敲に時間を掛けるほど、その俳句は単純化、明確化されてシャープになる。九割はそのためのエネルギーである。推敲九割を心掛けたい。       (山崎)

響焰2019年3月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201903


紙鳶     山崎 聰


霜の朝晩節戛々と通る
ほのあかきものいくつか冬至粥
十二月砂噛む心地して夜明け
早起きの子供に朝日紙鳶(いかのぼり)
あるときは熱い涙を雪おんな
人の日をなよなよあるき黄粉餅
さりながら越中八尾雪のなか
反骨のいまだくすぶりどんど焼
死者に光をやまなみるいるいと凍る
自転車が農道を行くおとなの日

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年12月号より

九月の雨うしろ向くとき老いにけり    栗原 節子
絵の中に転がっている夏の果       森村 文子
吉野葛おのずから百人一首        鈴 カノン
一切をおおきな袋風は秋         河村 芳子
二百十日蜜たっぷりの白い壺       小川トシ子
野分あと自問自答して一人        山口美恵子
二十年先にもあるだろう良夜       愛甲 知子
曼珠沙華やはりおまえは赤で咲け     笹尾 京子
就中白い小指の晩夏かな         蓮尾 碩才
真夜の月意味なく好きなことをして    波多野真代

 

<白灯対談より>

あしおとが揃う日十二月八日       北川 コト
海を恋い人を恋いいて冬の川       小林多恵子
不器用な鋸の音街小春          平尾 敦子
出口から人吐き出され十二月       廣川やよい
街中に赤あふれきて十二月        川口 史江
カピバラのはみ出している小春かな    大竹 妙子
冬田中一番電車来て止まる        相田 勝子
晩節や別れの先の枯木星         江口 ユキ
そうはいってもしかしやっぱりおでん鍋  田口 順子
小春かな外人墓地のマリアさま      金子 良子
椿落つ胸に穴あく音のして        土田美穂子
冬薔薇ただ泣いているだけなのに     加賀谷秀男
天高く人間ひと日ふくらみぬ       小澤 裕子
誉め言葉うれしく貰い年終る       笹本 陽子

 

 

【山崎主宰の編集後記】

 事柄を書くのが俳句だと思っていないだろうか。事柄つまり物語は、いくら書いてもそのままでは詩にはなり得ない。俳句はもともとストーリーテリングには馴染まないのだ。

 要するに、俳句は意味などどうでもいいのであって、意味はわかるが詩がわからないというのでは俳句とはいえない。句会などで、だからどうなの、と問うのは、意味事柄はわかるがその先の詩が見えない、どういう詩が云えているのか、と問うているのである。。

 俳句は本来意味を云う詩では断じてない。肝に銘じて欲しい。       (山崎)

響焰2019年2月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201902


ぬう と すう    山崎 聰


螻蛄鳴いて一伍一什は風の中
落城の翌日のよう崩れ簗
病院の十一月の長廊下
黄落は風神さまの出来ごころ
ぬうと来てすうと帰りぬ神の留守
東京にはじめての雪男の子
十二月八日のあとの朝の景
泥土なおかくのごとくに年暮るる
三丁目交差点前雪だるま
谷中千駄木遊んで遊んで年おわる

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年11月号より

一粒の時間かがやき滴れり        石倉 夏生
痛みとも凝視とも炎天の道        森村 文子
来ぬ人を待つ八月の人さし指       渡辺  澄
炎昼の蕎麦屋喪服の二三人        川嶋 悦子
八月七日立秋の文字ふと目にす      長沼 直子
どこをどうこの炎天の江東区       加藤千恵子
木の家に木の風通る立夏かな       中村 克子
あれやこれそれでも築地油照り      青木 秀夫
葵散るそういうものと気にもせず     愛甲 知子
蛍飛ぶ過去も未来も思わぬが       波多野真代

 

<白灯対談より>

善人の顔で歩いて酉の市         金子 良子
ひとりずつ家に戻りて良夜かな      小林多恵子
回りみち裏道小径銀木犀         川口 史江
暖冬やふるさとすこし遠のいて      江口 ユキ
さびしらは壁にはりつく天道虫      中野 充子
ふるさとの訛飛び交い冬の駅       廣川やよい
体の中を木漏れ日の十二月        北川 コト
ぼんやりわかれてえのころのはらっぱ   大竹 妙子
昨日とは違うかたちの冬三日月      大森 麗子
筑波山青を深めて冬立つ日        田口 順子
限界集落小粒柿を背におとこ       土田美穂子
木枯一号遠景に富士その他        相田 勝子
胸の奥真っ赤な花の秋と会う       笹本 陽子
冬ざれの哲学の道山頭火         辻󠄀  哲子

 

【山崎主宰の編集後記】

 ”俺たちはね、歌を聴いた人が自分のなかでストーリーを紡いでいく、そのきっかけ作りをするだけなんだよ”と、これはある作詞家の言葉である。

 私たちの俳句でも同じようなことが云えるのではないか。作者は詩のきっかけだけを示す。あとは読者に任せる。作者が全部云ってしまっては、読者は何もすることがない。

 作者はできるだけ言葉を惜しみ、読者の想像する場を広げる。ひとことで云えばそういうことであろう。          (山崎)

響焰2019年1月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201901


四響 志津子    山崎 聰


ある夜加齢森のはずれのお月さま
馬や人やぼんやりと秋過ぎてゆき
ふたりさびし三人の秋なおさびし
秋雨の草加越谷誰か過ぐ
鯛焼にたっぷりの餡喜八の忌
十二月八日ふたりで鬼ごっこ
あかあかと街の灯わが灯冬至粥
石段の先に冬星つと奈落
うみやまは冬のかたちを四響志津子
立ちあがり立ちどまり冬の夕焼

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年10月号より

三時には赤い蟹来る夏休み        森村 文子
こんなところに八月の非常口       加藤千恵子
鳶尾や父の背なかを見ておれば      鈴 カノン
神父来る向日葵畑のむこうから      岩崎 令子
七月の格別な朝赤ん坊          小川トシ子
ひまわりの一番きれいな日の自画像    愛甲 知子
加速して緑の中へ夏休み         鈴木 瑩子
誘われてほたるぶくろの暗がりに     あざみ 精
自販機のひとかたまりの暑さかな     大見 充子
迷いなく当然の白夏椿          笹尾 京子

<白灯対談より>

頑張った褒美のような秋の空       小林多恵子
瓦斯灯のほのおの揺らぎ冬に入る     廣川やよい
おとうとを泣かせうしろの苅田風     北川 コト
秋うらら小人ぞろぞろ丘越えて      大竹 妙子
遠く来て風とコスモス買いにけり     波多野真代
星月夜弱者貧者のへだてなく       川口 史江
秋高く人馬一体風のなか         中野 充子
ザクザクと妖怪の列山粧う        金子 良子
雲という雲引き連れて台風来       相田 勝子
地球儀に秋の海原みな遠く        笹本 陽子
野分あと軍手長靴竹箒          原田 峯子
長き夜やもやしのひげと猫の髭      田口 順子
お日さまに一番近い木守柿        加賀谷秀男
菊人形日毎たましい宿りゆく       浅見 幸子

 

【山崎主宰の編集後記】

 ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクは”私は見えるものを描いているのではない。見たものを描いているのだ”と云っている。”見えるもの”と”見たもの”は、言葉は似ているが意味するものは全く違う。つまり”作者の意志”ということである。

 ローマの武将ユリウス・カエサルの云う”人は見たいと思うものしか見ていない”と通底するものであろう。

 このことは俳句についても云えるのではないか。漠然と視野に入ってくるもの、つまり見えたものでなく、作者が意志を持って見たもの、それを書くのが詩であろう。          (山崎)

響焰2018年12月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201812


寧楽    山崎 聰


王朝の寧楽(なら)をおもえばほととぎす
炎日の柩を置くに水の下
その一本を赤い花アマリリス
遠い日はとおくなんばんぎせるかな
ゆっくりと下りて秋に追いつきぬ
諧謔のさいごのさいご秋の風
すこしだけやさしくなって秋の夕暮
あと一歩オリオン見えるところまで
秋の野赤く大きい子小さい子
十月の俺と尻尾と神楽坂

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年9月号より

はつなつや墨の滲みの吉野紙       栗原 節子
月下美人もうひとつの闇ひらく      森村 文子
六月のいちにち長し象の皺        米田 規子
暗澹の方へ曲がりて蝸牛         中村 克子
たれかれがいる逃水の向こうがわ     西  博子
まなこさまよい六月のみずたまり     青木 秀夫
沸点にとどく泰山木の花         愛甲 知子
戦争と平和かたつむり生きている     高橋登仕子
片隅に風のあつまる余り苗        土屋 光子
そら豆の不思議な顔の不愛想       石井 昭子

<白灯対談より>

何もないいつもの暮し良夜かな      廣川やよい
何はともあれ窓をふく野分あと      中野 充子
真実のいろ深くして白薔薇        大森 麗子
ゆったりと八月のみんなの地球      森田 成子
覚悟をすれば気楽なり二十三夜      波多野真代
主なき書斎にとどき稲光         川口 史江
十三夜かすかにまるい辞書の肩      小林多恵子
一粒の狂気大皿のマスカット       北川 コト
花ダチュラよみがえりよびもどすころ   大竹 妙子
青蜜柑やさしくされて寂しかり      相田 勝子
遠くから音が運ばれ運動会        江口 ユキ
秋夕焼故郷のいま山頭火         土田美穂子
秋初め天使の羽根のように雲       小澤 裕子
冬瓜の途方に暮れたるすがたかな     田口 順子
オペラ座の秋を思いてねむりけり     笹本 陽子
峡も秋小母さんと犬振り返る       加賀谷秀男

 

【山崎主宰の編集後記】

 俳句は、見たもの、つまり眼前の事実をどう書くかではなく、眼前の事実からどう離れるか、なのではないか。

 古来、写生の名句として人口に膾炙している俳句も、一見眼前の事実を書いているようで、実は事実の奥にある真実を書いているから名句なのだ。

 事実を確かめたら、あとはその事実から離れる、それができなければ本物の俳句は書けまい。虚実皮膜とはそういうことであろう。       (山崎)

響焰2018年11月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201811


嗚呼    山崎 聰


結界は新樹の森の二つ星
半夏雨たしかなるものなにもなく
北極星北斗七星川開き
六日九日それからの旱星
熱帯夜遠いものから見えはじむ
炎日に翳も七十五歳嗚呼
終戦忌大東京に熱い風
獣骨のごときを踏めり月の夜
これからのひとりとひとり実山椒
九月の蚊ここが踏んばりどころなり

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年8月号より

半透明かつ透明に立夏かな        森村 文子
金魚玉とんと遠くにぽるとがる      加藤千恵子
忘却を集めておりぬ花筏         中村 克子
ダーウィンのそのしんがりを蟇      西  博子
うつらうつら目覚めています金魚玉    岩佐  久
躑躅群れ咲く半分は狂気なり       愛甲 知子
西口で待たされている青蛙        鈴木 瑩子
機嫌よく月上りけりこどもの日      土屋 光子
麦の秋渋民村はこんな景         石井 昭子
風景の半分は空こどもの日        松村 五月

<白灯対談より>

踏んばってすこしゆがんで夏の月     大森 麗子
日の盛り気怠き午後のオスプレイ     中野 充子
自販機の赤い点滅敗戦忌         小林多恵子
ソーダ水遠い昭和の兄妹         森田 成子
自転車屋の熱い話を終戦忌        波多野真代
日捲りを忘れたるまま残暑かな      廣川やよい
平成の八月が逝く青々と         相田 勝子
入道雲のこらず呼んで甲斐の国      大竹 妙子
牽牛花記憶の壁の向こう側        川口 史江
八月十五日葡萄汁発酵す         田口 順子
みんみんのひとしきり鳴きあと黙る    江口 ユキ
草も木も鳥もけものも盆休み       小澤 裕子
夏惜しむ小さい駅の待合室        金子 良子

 

【山崎主宰の編集後記】

 幾つかの句会に出ているが、女性の作者は概して事柄を書いていることが多い。これに対して男性は概念から入っていく傾向があるようだ。事柄も概念も詩のきっかけには違いないが、詩の本質からは程遠い。

 事柄や概念は意味の裏付けを必要とするが本来意味を拒否したところから詩が生まれることを想えば、事柄や概念のもっとも先にある虚実皮膜の世界が詩だと思うべきであろう。       (山崎)

響焰2018年10月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201810


大和は吉野    山崎 聰


毛虫焼くことからはじめ山暮し
きょうその日いちにちだけのねむの花
八月の大和は吉野戦争へ
真夜中の異物としての冷蔵庫
どこまでも男と女盆踊り
土用丑の日海を見て空を見て
熱帯夜ひとりは置いてゆかれけり
三伏のけものめきたる草の丈
彼および彼女らそして合歓の花
縁あって月夜のバーボンウィスキー

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年7月号より

嘴をひらいて紅く卯月かな        森村 文子
うすものやうしろ手に柔らかいとげ    渡辺  澄
おろおろと筍茹でて雨や風        米田 規子
春疾風みじん切りをたたきのめして    鈴 カノン
麨や初恋ほろほとこぼれ         西  博子
したたかに男兄弟桜餅          小川トシ子
花水木清く正しく晴れた朝        秋山ひろ子
五月来るしみじみと右手ひだり手     高橋登仕子
嗚咽とも桜ふぶきのど真ん中       大見 充子
また一人泣かせてしまい桜どき      松村 五月

<白灯対談より>

雲海のどこにどう打つ句読点       川口 史江
太陽の申し子として西瓜食む       中野 充子
濃紫陽花穏やかにいて人の中       大森 麗子
流木のオブジェ七月のホテル       小林多恵子
川満々としたのはきっと夏の月      波多野真代
仕合せを全部つめこみ蛍袋        森田 成子
夏祭ふとよぎりたる父の匂い       廣川やよい
ねじり花ねじれて見える青い空      相田 勝子
舟虫しぐれ変哲もなく生きていて     大竹 妙子
淋しさの通り過ぎたる夏の雨       水谷 智子
砂浜を走って来る子盛夏なり       笹本 陽子
大切なものは見えずに走馬灯       田口 順子
風神も雷神も居る雲の峰         小澤 裕子
大暑の日砦に籠るように住む       江口 ユキ
あこがれは豪華客船夏の蝶        金子 良子
一年のわたしの月日松の芯        原田 峯子

【山崎主宰の編集後記】

 最近、若い人たちの俳句を読むと、恰好いいなあ、と思うことがある。もちろん俳句は作者を離れたフィクションだが、作者自身に恰好良さや時代の先取り、といった意識があるから、俳句も恰好良くなるのだろう。

 だが、俳句という文芸は、恰好良さとは正反対の、きわめて泥臭い、いわばいちばん時代遅れの文芸なのではないか。自然を愛し、人を愛し、自分を愛する、そんな今の世では一笑に付されるような、時代遅れの文芸なのではないかと思うのだがどうであろう。       (山崎)

響焰2018年9月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201809


慟哭    山崎 聰


トマトから生まれてきょうのむすめたち
熟睡のあと夏星の一語一語
東京をはなれてからの祭笛
蚰蜒(げじ)蜈蚣(むかで)いろあって日が暮れる
アマリリスその一瞬の顔かたち
慟哭はかの夏の日の雲間から
ためらいてさまよいて炎日の母ら
ともだちのともだちとして夏の星
やさしさに遠くある日の白い滝
ぼんやりといて月の夜のアメフラシ

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年6月号より

みずうみにみずいろのそらみずの春    和田 浩一
雪国のふたり横浜名残雪         米田 規子
桜どき未知数わっと溢れ出て       加藤千恵子
初蝶来て老人がきて白い家        中村 克子
見送られ見送りふいに霞けり       伊達 甲女
花山椒齟齬ありて人なつかしく      西  博子
赤い紙など燃やしいて春彼岸       小川トシ子
花の宴ご先祖様と子々孫々        君塚 惠子
冴返るポストに落す短詩型        大見 充子
目覚めれば雪ゆめのつづきのように    波多野真代

<白灯対談より>

存分にふるさとの風夏の果        大森 麗子
会いにゆく内幸町沙羅が咲き       大竹 妙子
蛇穴を出て多摩川の水明り        中野 充子
小惑星に探す王子とバラと井戸      小林多恵子
梅雨長く二番ホームを鳩歩く       相田 勝子
凌霄や一本道はふる里へ         廣川やよい
偏見はたちまち消えて青野かな      波多野真代
森五月見えぬもの大きく揺れて      森田 成子
梅雨明けて待っていたのは一番星     笹本 陽子
砲台六基こうこうと白い夏        川口 史江
父の日のすこし錆びたる二眼レフ     田口 順子
水音とあとは青空ウェストン祭      金子 良子

【山崎主宰の編集後記】

 世は挙げて合理化、効率化の時代である。速いことは良いこと。役に立たないものは捨てる。もちろん、そのことに異論はない。

 文明と文化は似て非なるもの。効率や合理性、有用性などは、要するに文明の領域に属する

 俳句は違う。効率や合理性とは対極にあるもの。句会ひとつとってみても、清記、選句、披講などは非効率の最たるもの。しかしそんな効率など薬にしたくもない作業の中に、本物の文化が深々と息づいているのだ。       (山崎)

響焰2018年8月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201808


たまご    山崎 聰


八十八夜はるかなる母らのこえ
ひきがえるうしがえるこの世は楽し
赤いものだけを見ており麦畑
いっときの狂気とも夜のアマリリス
つと逝きぬ夏の明るい日曜日
ライラック八十歳のむこう岸
還るべき空なく冷蔵庫のたまご
おやあいつ滝のむこうの蒼い顔
夏木立人形劇を素通りして
父の日のわれらもとより少数派

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年5月号より

液体と思ふ冬日溜りの庭         石倉 夏生
みなみかぜ春は整列して来たり      森村 文子
氷上を遠廻りして父帰る         渡辺  澄
ふと阿Q書肆百年の春の闇        加藤千恵子
北窓を開く吉報ありにけり        伊達 甲女
少年と夏目漱石冬の駅          岩崎 令子
ほほほほとただあつまって福寿草     小川トシ子
茨木のり子如月の真正面         君塚 惠子
ものの芽や太陽暦に躓いて        山口美恵子
桜あんぱん鉛筆耳に挟みながら      愛甲 知子

<白灯対談より>

五月雨るる小石ころころ里の駅      森田 成子
花衣あしたの色がきまらない       小林多恵子
どくだみの踏まれてからの底力      中野 充子
忘却のひとつ残りて花は葉に       大森 麗子
遠きざわめき五月雨を眠るかな      波多野真代
燕来る本屋の消えた商店街        江口 ユキ
できるだけめだたずそっと白牡丹     廣川やよい
山法師山の向こうにあこがれて      相田 勝子
涅槃西風とりむしけもの山頭火      大竹 妙子
つまずいてよろけて止まり黄水仙     笹本 陽子
ターナーの風景に入る薄暑かな      川口 史江
この角を曲がれば異界薔薇館       田口 順子

【山崎主宰の編集後記】

 たくさん云ったから伝わるわけではない、ということは、句会などで誰しも経験していること。なんといっても俳句は五七五、十七音の世界。たくさん云うほど却って何を云いたいのかわからなくなる。俳句は云わないで云う文芸なのである。

 主題は一つ。季語はそれを補うためにある。もっと云いたいと思ったら、その一歩手前で思い止まる。思い止まった部分は、必ず十七音の行間に滲み出て読者に訴えかける筈だ。       (Y)

響焰2018年7月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201807


なあ五月    山崎 聰


いっさいが春から夏へにんげんも
夏が来るうすくらがりのむこうから
ひとりっきりはやっぱりいいぜなあ五月
見えているかあの山裾の黒い百合
アネモネがきれいに咲いてこの世広し
あるかなきかのこえ聞いている緑の夜
青葉潮生きているからざわざわと
夏の朝夏の匂いのすこしもなく
大きいものを大きく抱いて夏の闇
新緑がこっちへ来るよ月曜日

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年4月号より

黒いかたまり大寒の交差点        栗原 節子
むつかしい生き方だったか雪だるま    渡辺  澄
第九そして第九条十二月         田中 賢治
ダイヤモンドダスト淋しさを遠く     加藤千恵子
二駅を眠りて十二月八日         中村 克子
虎落笛山なみ蒼煌と尖る         西  博子
ばたばたと人の足音十二月        岩佐  久
この路地もこの雨音も春隣        石井 昭子
氷湖あり身の内軋むその辺り       大見 充子
冬の月ぞろりぞろりと列につく      松村 五月

<白灯対談より>

蛇口から水呑む男聖五月         小林多恵子
桜蕊降る忽然と軍用機          中野 充子
晩春やこころ綺麗にさらわれて      大竹 妙子
見えてくる私の中の花篝         大森 麗子
芽吹かずにはいられないただそれだけ   波多野真代
花吹雪ただ消えたくて酔いたくて     廣川やよい
人声を聞き分けているチューリップ    相田 勝子
捨てられぬ昭和の記憶亀鳴けり      森田 成子
江戸絵図を辿りてゆけば海おぼろ     塩野  薫
春の道風の中なる父と子と        小澤 裕子
ルノワールの少女の瞳風光る       川口 史江
鳩雀烏と人と花の昼           平尾 敦子

 

 

 

【山崎主宰の編集後記】

 ”逆転の発想” -、俳句は逆転の発想が罷り通る世界、もっと云えば逆転の発想で成り立っている世界ではないかと思う。いつも云うように、俳句は普通のことを普通の言葉で普通に云えばよいのだが、その際すこしだけ見方を変えることが大切である。見方を変えるとは、とりも直さず発想を変える、つまり発想を逆転させることにほかならない。

 ”遠いものを近くに、近いものは遠くに置け”などと云われるように、人と違う見方、人の気が付かないことを云う、それが逆転の発想ということである。心したい。       (Y)

響焰2018年6月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201806


春のいろいろ    山崎 聰


多喜二忌とたしか同じ日青鮫忌
これまでもこれからさきも春のいろいろ
東京の花の下にて鬼ごっこ
何色と訊かれて春のいろという
何饅頭の薄皮のよう木の芽雨
人去って花残るある雨の午後
しばらくは春の名残リのひとつ星
花おわるあとは自由な風吹いて
たましいを光らせあるく穀雨の夜
われいまここにしかと在り蕨餅

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年3月号より

寒鯉の夢に緋鯉の現るる         石倉 夏生
走り続けて荒星の輝きに         米田 規子
淋しさが笑っておりぬ花八つ手      紀の﨑 茜
青山通り下る二の酉三の酉        西  博子
一純粋こつと躓く十二月         河津 智子
出藍の誉れのような初御空        内田  厚
村一つ昭和に染めて柿たわわ       山口 典子
ふかぶかと御辞儀しており十二月     楡井 正隆
初寝覚アンモナイトの渦の中       大見 充子
戦争の方を見ている冬桜         松村 五月

<白灯対談より>

ほどほどの田舎のくらし花ミモザ     廣川やよい
千本の土筆が目指す青い空        森田 成子
寒い風暖かい風雪柳           江口 ユキ
たんぽぽの綿毛と帰る日曜日       中野 充子
水飴は初恋の色はるのいろ        波多野真代
ぽつねんと父が来ており春の星      大竹 妙子
早潮の葉山の浜の若布籠         小林多恵子
太陽に近き色なり花山茱萸        相田 勝子
朝桜独り占めして空の青         笹本 陽子
地球儀の裏のくらやみ亀鳴けり      塩野  薫
暮れなずむ谷中銀座のさくら餅      大森 麗子
道問えばひとみなやさしあたたかし    川口 史江
長い貨車にふと戦争を春の風       原田 峯子
三月はうすべにいろに暮れてゆく     小澤 裕子

 

 

【山崎主宰の編集後記】

 二分法は単純でわかり易いから、なんとなく説得力がある。敵か味方か、保守か革新か、白か黒かなど。

 俳句の場合も伝統と前衛、具象と抽象、虚と実などのように二分法はそれなりの説得力を持つ。しかし、俳句のような文芸では、案外二つの間のグレーゾーンに大きな意味と本質がある場合が多い。事実がきっかけだったとしても、俳句として完成させるためには想像力の働きが大きく関わる、といった具合に

 俳句に限らず、およそ文芸に二分法は馴染まないと思うが、どうであろう。       (Y)

響焰2018年5月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201805


おぼろ    山崎 聰


みな黙るたましい雪に還るとき
喜八亡く兜太また逝き二月の田
見えるものだけを見つめて朧の夜
なにはともあれ雪国の春を見に
早春というやや甘酸っぱい野山
ひとつずつ離れてゆきぬ朧影
加齢して春宵一刻蒸羊羹
月の裏側見えてくるはず北開く
うすべにともちがうある春のあけぼの
たそがれのひとりは春のまっただなか

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年2月号より

十六夜の窓辺に吊す喪服なり       栗原 節子
菊かおる菊にかくれて菊人形       森村 文子
落葉掃く玲瓏なりし昨日今日       山口 彩子
十一月はゆるやかなる上り坂       米田 規子
納得のかたちに戦ぐ枯芒         中村 克子
無位無官なれど見送る神の旅       伊達 甲女
漆黒も紅も枯れ人に色          君塚 惠子
天平の光をあつめ実むらさき       山口 典子
三日月にひっかかっているピカソ     松村 五月
戻りたい戻れない真夜の寒雷       波多野真代

<白灯対談より>

雪の轍たどってゆけば父の国       中野 充子
喧噪は春風浅草一丁目          大竹 妙子
赤ん坊もお婆さんもいて落葉       小林多恵子
大雪嶺さらにかがやき山の声       森田 成子
いにしえの舟唄なのか冬柳        波多野真代
野水仙ほつりほつりと村昏れて      土田美穂子
梅の香や呼ばれたようで夜の底      廣川やよい
憂国や冬の月蝕赤ければ         相田 勝子
雪蹴って空缶蹴って昭和かな       塩野  薫
雪が降るふるさとすこし近づいて     江口 ユキ
寒卵抱きたるここち玉三郎        大森 麗子
みな老いて叱られており花の昼      笹本 陽子
雪が降り昭和の香り消えてゆく      田口 順子
ひと日会いひと日を減らし花いちご    川口 史江

 

【山崎主宰の編集後記】

 ”考え抜いてふんわり表現する”とは某グラフィックデザイナーの言。これは俳句にも当てはまる。

 いろいろ材料や言葉を思い浮かべてさんざん考えた末、俳句として出すときは、その中のごく一部、ほんのすこしだけをさりげなく云う。云わなかった思いや言葉は、必ず云ったことの行間に滲んでいるものだと思う。

 たくさん考えてすこしだけ云う。俳句という詩の強さはこのへんにあるのではないか。       (Y)

響焰2018年4月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201804


すでに白    山崎 聰


子供のように葛湯を吹いてあと笑う
馬嘶くその夜たくさん雪降って
一月の朝日を背負い山暮し
霙降りやまず津軽じょんがら節
雪の杣道一喜一憂して黙る
山に雪馬にも降ってつと日暮
月山はすでにして白また吹雪く
快食快眠されども北の大雪報
おおかみの吐息のような春の雪
童顔の少し崩れて春の月

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2018年1月号より

栗拾う罪拾わざる罪歩きだす       和田 浩一
芒原の密会を四百字にて         石倉 夏生
朝露の光の中の杜甫李白         田中 賢治
傍線の黒き一本雁渡る          山口 彩子
十二月戦争を忘れたころに        鈴 カノン
秋の日溜りほろほろとビスケット     愛甲 知子
秋来るを雲の軽さと思うべし       大見 充子
十月やとなりの町の空を見に       笹尾 京子
レモン放れば美しき放物線        松村 五月
木犀散って金の川夜の川         波多野真代

<白灯対談より>

多喜二忌の小樽運河に人力車       小林多恵子
凍星やみつめたら恋なんて嘘       大竹 妙子
柊の人間くさく陽は丸く         中野 充子
会いにきて雨に濡れたる石蕗の花     廣川やよい
剃りあとのひっそりと元日の朝      波多野真代
泥濘んだ道をまっすぐ成人の日      森田 成子
初鴉なれば悪声許しおく         相田 勝子
鳥海の山だけ光り年の暮         大森 麗子
鉄を切る青き焰の寒暮かな        塩野  薫
初恋のうつらうつらとポインセチア    土田美穂子
暖房し満喫の日々ありがとう       笹本 陽子
はや七日今年最初のそぞろ雨       江口 ユキ
わたしの声とどいてますか実南天     川口 史江
空っ風野っ原だった始発駅        原田 峯子

 

【山崎主宰の編集後記】

 ”恋愛は美しき誤解で、結婚は惨憺たる理解だ”と云ったのは、昭和の文芸評論家、亀井勝一郎だが、俳句の場合もややこれに似ている。

 俳句と出会った最初の頃は、短くてとっつき易いとのめり込む(美しき誤解)が、だんだん俳句がわかってくると一筋縄でゆかぬことに気付き苦しむ(惨憺たる理解)。     

 そこから先が問題で”美しき理解”に辿り着くまでの曲折と到達は、偏にその人の情熱と努力に掛かっている。       (Y)

響焰2018年3月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201803


どこをどう    山崎 聰


かの山をいまも敬い十二月
神域のそぞろに寒く罪と罰
飛んでゆく光ひとすじ去年今年
やや青い羽毛のように年明ける
人に倦みたる人ばかりお正月
ごまめ数の子やや湿っぽいつちくれ
初あかり浩一節子文子澄
年改まるどこをどう曲ろうか
大寒波もとより誰のせいでもなく
多喜二忌の前夜耿々波の上

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2017年12月号より

苦労したらしき曼珠沙華いっぽん     森村 文子
戦争と花火におびえ赤ん坊        渡辺  澄
いのこずち或る日そろりと行ったきり   加藤千恵子
満月や全ての悪に堪えてきて       紀の﨑 茜
秋燕五十三次日本橋           岩佐  久
燃えさしのようなる懈怠百日紅      君塚 惠子
松手入れ猫は白くて犬はポチ       愛甲 知子
暗澹のはじけて飛びぬ三尺寝       あざみ 精
整備士と蒸気機関車野紺菊        楡井 正隆
秋高しかろうじて正常範囲        石井 昭子
</span あかね>

<白灯対談より>

大空の出口を探し枯木星         大森 麗子
足早の前傾姿勢十二月          中野 充子
菊の香や湯島の坂を下るとき       廣川やよい
晩年をとりあるいはさかな冬       大竹 妙子
木守柿地球安泰とも言えず        相田 勝子
小春の日はみだしている飛行船      森田 成子
並木道間奏曲として落葉         波多野真代
大路から小路へ紛れ年の暮        塩野  薫
佳きことのひいふうみいよ冬至の湯    小林多恵子
雑踏に光があふれ十二月         江口 ユキ
風花のしずかに舞いて五階の窓      笹本 陽子
草の花ふるさとほのと灯りいて      土田美穂子
ザビエル祭水琴窟に雨が降る       水谷 智子
軒低く豆を売る店一葉忌         田口 順子
朝まだき電話から冬はじまりぬ      川口 史江
水色はやさしさの色鳥渡る        浅見 幸子

 

【山崎主宰の編集後記】

 動詞を減らす。動詞は説明のための言葉。動詞が多いほどその句は説明になる。動詞は使わぬに越したことはない。俳句は体言の文芸と云われているくらいだから。文章は動詞から腐る、と云ったのは開高健。短い俳句はなおのこと。

 語順を変えてみる。思っていることをただ並べるから句が弛む。語順を変えて句を引き締める。例えば結論を先に云うとか。     

 省略に徹する。俳句は省略し過ぎるくらいでちょうどよい。俳句は引き算、極力言葉を削る。

 作句の要諦はこんなところか。       (Y)

響焰2018年2月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201802


ゆらゆらどん    山崎 聰


華やいであと散り散りに紅葉狩
木枯し一号ゆらゆらどんと坐りいて
極月のまっただなかの玉子焼
十二月八日深入りすれば風哭いて
何の咎月山ははや雪を被て
数え日の風のなかなる一老人
あとしばらくは生者の側に年暮るる
十二月まっ逆さまに堕ちてゆく
山に棲み海を恃みて玉子酒
山すでに深き眠りに冬至粥

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2017年11月号より

乗れと云ふ船現るる熱帯夜        石倉 夏生
ぱたぱたと仕舞われている祭かな     森村 文子
蝉しぐれ不意に日の丸よぎりけり     渡辺  澄
踏んばって泣いているなり日輪草     米田 規子
重きもの軽くとはこの大夏野       加藤千恵子
青いままの記憶いくつか山棟蛇      小川トシ子
海底に山並眠る熱帯夜          西  博子
揺蕩えば稲の匂いのその昔        山口美恵子
崩落のあとの夕暮独活の花        楡井 正隆
柩なら銀河に浮かべとりけもの      大見 充子

<白灯対談より>

紅い帯むらさき小袖菊人形        森田 成子
突然に少年が来て小六月         廣川やよい
朽ち葉石ころ夭折の一詩人        大竹 妙子
たおやかにしなやかに生き秋桜      中野 充子
北窓を塞ぎて北の星見えず        相田 勝子
梨むいてわからぬニュース聞いている   笹本 陽子
天使おりたか欅そこだけ黄ばみたる    波多野真代
眼裏に白い花びら林檎剥く        土田美穂子
居酒屋の裏に回れば冬の川        塩野  薫
十三夜紙の匂える本開く         小林多恵子
ため息はポインセチアの火の中に     大森 麗子
落葉踏むヒールを鳴らしながら踏む    川口 史江
小春の日赤いリュックに哲学書      水谷 智子
立冬や空気かすかに重くなり       江口 ユキ
亜麻色の光の中をマスクして       原田 峯子

 

【山崎主宰の編集後記】

 俳句を日記代わりの身辺雑記と心得るか、ともかくも文芸の端くれと考えるか、前者は手法的には見たものを中心に書くことになろうし、後者は言葉をだいじにして俳句を書く、とまあきわめて大雑把に云えばそんなことになるのではないか。

 もちろん俳句は庶民の詩であって、いろいろな人がいろいろな形で楽しめばよいわけだから、どちらが良い悪いということではなく、作者の詩ごごろの有無ということになるのだろう。     

 俳句はテーマや手法ではなく、つきつめれば作者の詩ごころが問われているのである。       (Y)

響焰2018年1月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201801


愚駄愚駄    山崎 聰


語り部の語りはじめは甲斐の柿
平家赤源氏白旗村まつり
台風のうしろを行きぬ下駄はいて
この世いま愚駄愚駄愚図と秋の長雨
靴下の穴を見ている十三夜
今生を鬼の来ぬ間の谿紅葉
能因の風とももみじかつ散りぬ
みんなさかなになっていて豊の秋
百万のもみじ百戸の隠れ谷
たましいのところどころの冬景色

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2017年10月号より

刻々と時を失い朱のあじさい       和田 浩一
青芒正体不明の尻尾踏む         田中 賢治
言葉さがしているとき鳴けり牛蛙     佐々木輝美
みな覗く続いてのぞく木下闇       田畑 京子
蝉しぐれ大地礼讃の焔          西  博子
いまもどこかで八月の海の向う      青木 秀夫
青揚羽極楽寺駅十三時          秋山ひろ子
木葉木菟さんにんはもう帰らない     中村 直子
八月来る腓返りのように来る       佐藤由里枝
枝豆のゆで上がるころみな戻る      松村 五月

<白灯対談より>

こぼれ萩華やぎもせず舞いもせず     中野 充子
霧の帯消えて生まれて川の町       廣川やよい
動き出す獏やら天馬秋の真夜       大竹 妙子
柿熟すひと粒からのこころざし      森田 成子
横書きに馴染めず夜の長きかな      相田 勝子
何十回何千回の虫の夜          小林多恵子
ゴオーと滝閻魔の声のしたような     波多野真代
コスモスの微笑を貰う誕生日       笹本 陽子
雨の日は雨にまかせて草紅葉       塩野  薫
滝飛沫見えるはずなき人見えて      大森 麗子
上りきって百の階段うすもみじ      川口 史江
渓谷の空あるかぎり照紅葉        田口 順子
天国は明るい空か桐一葉         土田美穂子
淋しさをさらに淋しく木守柿       江口 ユキ
団栗と大地と風と走る犬         小澤 裕子
過去未来今日新しき鰯雲         原田 峯子

 

【山崎主宰の編集後記】

 ”継続は力、努力は天才”と云われるが、つまりは継続して努力できる人が天才、ということであろう。一時の努力はやろうと思えばできる。試験勉強が良い例である。しかし継続は難しい。

 努力を継続できるその源は何だろう。それは”好き”ということではないか。好きなことには人間は努力を傾注できる。とは云っても、好きかそうでないかは俄かにはわからない。努力を続けている間に好きになるということもある。       (Y)

響焰2017年12月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201712


昭和のおとこ    山崎 聰


野分あと西口がいまおもしろい
夜半の秋昭和のおとことして座る
月今宵首上げてティラノサウルス
柞紅葉のまんなか真昼鬼女もいて
秋の空少年谷を出てゆきぬ
進軍の法螺かそこだけ紅葉して
のぼさんと虚子と碧子と今日の月
体育の日としよりふたりなんとなく
水平思考す柞紅葉のその真下
谿落葉なにやら悪のにおいして

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2017年9月号より

海光るうつうつと著莪の咲くころ     栗原 節子
望遠鏡のぞけば少年の六月        森村 文子
悼むとはきのうの蝶の行方かな      渡辺  澄
うつらうつらと六月を踏み外す      川嶋 悦子
リラの冷えみんな離れて紙一枚      鈴 カノン
ためらわずそら豆選ぶ四人かな      伊達 甲女
万緑のまん中を遠く来て座る       西  博子
包丁を三本研ぐと夕焼ける        山口美恵子
蟷螂生ず百男百女の一番目        愛甲 知子
遥かなる族おもえば蛍かな        大見 充子

<白灯対談より>

月明りだけのふるさと橋の上       廣川やよい
何はともあれチチロ鳴き眠りけり     波多野真代
さやけしや花の図鑑と絆創膏       中野 充子
曼殊沙華天変地変曼殊沙華        志摩  史
悪人も居るにはいるが敬老日       相田 勝子
今もなお街にキューポラちちろ鳴く    塩野  薫
秋刀魚焼く路地裏あかり三軒目      森田 成子
ありありとあり蜘蛛の囲とこのくらし   大竹 妙子
供花としての野のリンドウと花桔梗    笹本 陽子
和泉式部なら乱れ咲く紅い薔薇      小林多恵子
赤として大壺に在り彼岸花        土田美穂子
新宿も渋谷も暮色八月尽         江口 ユキ
夏の霧見ればたましい座る椅子      大森 麗子
木道の木漏れ日を踏む秋初め       水谷 智子
戦争を読み終え夏を終えにけり      川口 史江
ふるさとの秋の匂いの橋渡る       下津 加菜

 

【山崎主宰の編集後記】

 見えていないものを、見えているように書く。見えているものは、見えていないように書く。云ってみれば俳句とはそんなものではないか。

 見えているものを見えている通りに書いても当り前過ぎてちっとも面白くない。見えていないものを見えていないまま書くと、なんだかわからずに伝わりにくい。

 禅問答のようだが、どだい俳句などという代物は、正体のよくわからない忍者みたいなものなのであろう。       (Y)

響焰2017年11月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201711


なにがなし    山崎 聰


どのたましいともなく揺れて夏の星
戦前もここに棲みしか山の蟻
仮の世を大きく外れ夏野原
なにがなし越中八尾盆の月
薪能肩を掴まれ振り返る
雨に倦み人にも倦みて夏の家
おおかみの剥製夏のおわるころ
蟷螂の悪所通いを許しけり
峡を出てわっさわっさと真葛原
父母祖父母兄姉おとうときのこ汁

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2017年8月号より

孔雀花ねむ少しだけ深入りす       森村 文子
安全圏か白薔薇のまんなかは       川嶋 悦子
連翹の微熱の中を歩きけり        和田 璋子
抜け道はたしかにありて昭和の日     小川トシ子
夏きざすぐるりと銀座六丁目       田畑 京子
メタセコイア伸びて五月の大東京     西  博子
蚯蚓はみみず貌あるわけでなくみみず   青木 秀夫
とくべつな夜は青くて八十八夜      秋山ひろ子
八十八夜無味乾燥にして透明       あざみ 精
牡丹咲くこの世のひみつのぞくため    笹尾 京子

<白灯対談より>

消防署に消防車いる夏の昼        波多野真代
会津から始まる古道蕎麦の花       塩野  薫
送り火や行き交う人は無口にて      志摩  史
海の日や長屋五軒の三軒目        大竹 妙子
八月の深いところを墨田川        中野 充子
オカリナの音色のごとき梅雨の月     相田 勝子
家猫の動体視力夏燕           小林多恵子
八月や一人ひとりに銀の雨        森田 成子
わが影を犬がひっぱる秋そこに      笹本 陽子
ゆっくりとオルゴール鳴り夏館      酒井眞知子
夏衣吐息のように昭和の歌        土田美穂子
雨の月豆煎る音の千住宿         廣川やよい
銀座うらみち羅をなびかせて       川口 史江
暗闇を一気に照らし盆踊り        大森 麗子

【山崎主宰の編集後記】

 俳句は、もちろん文芸ではあるが、決して特別な人の特別なものではなく、云うなれば昔から云われているように庶民の詩である。だから普通の人が普通のことばで云えばよいのだが、もうすこし云えば”普通の人間の内部にひそむ別なもの”を書くもの、つまり、普通の人が普通の生活の営みの中で、あるときふと自分の心の中を覗いたときに見た”普通でない何か”、そんなものをことばで書き留めたのが俳句だ、と云っては云い過ぎだろうか。       (Y)

響焰2017年10月号より


【山崎主宰の俳句】縦書きはこちら→Shusai_Haiku_201710


かえりみて    山崎 聰


もう一歩またもう一歩ひきがえる
百日紅夾竹桃とろりとふたり
腹ぼての羅漢を嗤い宵祭
夏の闇音したようで何もなく
盆の月あれも大きなたまご焼き
しんがりは飽食の犬長崎忌
たそがれは喪の匂いして盆踊り
茂吉全集第五巻今朝の秋
かえりみて遠く熱砂の糞ころがし
僧五人ことしいちばん暑い日に

【山崎主宰の選】

<火炎集>響焔2017年7月号より

まだねむそうなせせらぎと山椒の芽    栗原 節子
芹匂う吉永小百合いるように       森村 文子
遅ざくら風の機嫌の夜に及ぶ       山口 彩子
春ひとりことりことりと万華鏡      川嶋 悦子
白昼の深きところへ桜散る        中村 克子
いまさらに蚯蚓と父の太い指       小川 英二
東京がふわりと浮かぶ花の昼       西  博子
桜烏賊見えるものだけ見て笑う      愛甲 知子
染まりたき色にそまりてスイートピー   小林マリ子
輪郭は空に溶け出し夕桜         松村 五月

<白灯対談より>

夜のしじま青葉もくもく増えてくる    波多野真代
炎天の階段一歩また一歩         塩野  薫
ピロリ菌ビフィズス菌と梅雨の月     志摩  史
梅雨の蝶揺れながら流されながら     森田 成子
雲の峰老人にある日曜日         相田 勝子
白南風や本をリュックに聖橋       小林多恵子
濃紫陽花今日の色また今日の風      中野 充子
ひと逝きてやさしさ増しぬ白い菊     笹本 陽子
棕櫚の花思いもかけず鰐の鼻       酒井眞知子
てのひらを走る静脈熱帯夜        大竹 妙子
梔子の花身の内のきしきしと       川口 史江
よそ行きの銀座かいわい夏の月      下津 加菜
ゆるやかに老いの転がり梅雨の月     土田美穂子
寂寥の極みを真夜の冷蔵庫        大森 麗子

【山崎主宰の編集後記】

 人生のどんづまりにきているせいか、”今を生きる”ことの大切さをしみじみ思う。過去をいやおうなしに引き摺りながら、そして見えない未来を思い浮かべながら、人間は今という時をともかくも生きてゆくほかはないのだ・・・・。
 そういう意味で、俳句はまさに、”今を生きる”文芸である。”いまここわれ”とは、とりもなおさず只今の自分を生きるということにほかならない。俳句の第一歩は、もしかしたら、人生の今を確かに生きることから始まるのかも知れない。       (Y)